ことば

2012年7月 8日 (日)

蛇蔵&海野凪子著『日本人の知らない日本語2』

蛇蔵&海野凪子著『日本人の知らない日本語2…爆笑!日本語「再発見」コミックエッセイ』

メディアファクトリー
ISBN978-4-8401-3194-0
880円+税
2010年2月19日発行
159 pp.

目次
はじめに
第1章 日本語学校へようこそ
 日本語学校はこんな所/色の話
第2章 敬語は難しい
 敬語の授業を覗いてみうよう/らぬき言葉はなぜ生まれたか
第3章 クールジャパンに憧れて
 L'Otaku(ロタク)/オタクふたたび
第4章 神社に行こう
 お参りをしてみよう(前編)/お参りをしてみよう(後編)
第5章 学校vs先生
 AとBはどう違う/忍者大好き
第6章 冬になると
 干支/お正月を知ろう
第7章 受け継がれるもの
 自己紹介を印象的に/万葉仮名という無法
第8章 点と丸
 濁点の点はどこから来たか/半濁点の意外な作成者
第9章 ご注意、怖い話あり
 縁起よしあし/怖い話
第10章 教室の外で
 クララさんの事情/生徒は先生
第11章 番外編
参考文献
あとがき

 イラストレーター兼コピーライターの蛇蔵氏と外国人相手の日本語学校で日本語教師をしている海野凪子氏によるコミックエッセイである。現時点で第3巻まで発行されているが、その第2巻である。たまたま妻が図書館で借りてきていて家にあったのであるが、星谷仁さんから、以前のこのブログのエントリーへのコメントで「ら抜き言葉」について書かれていると紹介されていた本だったので、早速読んだ。
 「ら抜き言葉」については第2章に書かれている。ここには、どんな場合に「ら抜き言葉」が生じ易いのかが表(p.27)にまとめられており、非常に理解し易い。日本語の基本的な文法においては、五段活用とサ行変格活用の動詞は「可能形」と「受身・尊敬形」の形が違うが、一段活用とカ行変格活用の動詞は「可能形」と「受身・尊敬形」の形が同じである。「可能形」と「受身・尊敬形」の形が同じだと混乱しやすいので「可能形」と「受身・尊敬形」を区別するために「ら抜き」が生まれた、と説明されている(p28)。
 日本語学者である浅川哲也氏は、氏の著書である『知らなかった!日本語の歴史』のなかで、何の理由の説明も無く、問答無用に「『ら抜きことば』は『誤用』である」と切り捨てており、「『ら抜きことば』が拡大することは問題である」としている。
 どちらの方が説得力があるかは明らかである。浅川氏は『ら抜きことば』は「あるべきものではない」としているのに対して、海野氏は現に存在しているものについての理由を考えている。これでは浅川氏は「日本語学者」という肩書きを名乗るのが恥ずかしいのではないかと思われる。
 本書では『レタスとサイレ』についても説明している。『レタス』とは、五段活用とサ行変格活用の動詞を可能形にするときに、必要ではないのに「れ」を入れてしまう現象であり、『サイレ』とは、「帰ら『さ』せていただきます」というように、必要のない場所に「さ」を入れてしまう現象である。これも浅川氏に言わせれば、問答無用に「誤用である」と切り捨ててしまうところであろうが、海野氏は、「『れ足す』も『さ入れ』も、今のところ正式な日本語としては認められていませんが、そのうち『正式な動詞の形』として日本語の教科書に載るようになるでしょうか。(p.33)」とまとめているが、現在の日本語の現状を考えれば、海野氏の考え方の方を支持しないわけにはいかないところである。
 現場のことを真面目に知ろうともしないで理想論だけを述べている『自称日本語学者(=浅川哲也氏)』よりも、現場で奮闘している『日本語教師(=海野凪子氏)』の方が説得力のある説明ができるとは、「現場をバカにしてはいけない」という教訓にしなければいけないと思う。これは「自戒の念を込めて」のことである。

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2012年7月 7日 (土)

浅川哲也著『知らなかった!日本語の歴史』

浅川哲也著『知らなかった!日本語の歴史』

東京書籍
ISBN978-4-487-80537-2
1,600円+税
2011年8月22日発行
333 pp.

目次
はじめに
第1章 日本語とは何か
 日本語とは何か/日本語の歴史の時代区分/方言と日本語の歴史の関係/日本語はどこから来たのか−『万葉集』を朝鮮語で読むことはできない−/しりとりはラ行で勝てる−アルタイ語の特徴−/濁音は日本語の接着剤−連濁の機能−/日本語はオペラ向き?−開音節構造と閉音節構造−
第2章 万葉仮名
 万葉仮名−「月」じゃ「都奇」と書く−/万葉仮名の「戯書」/「日」と「火」は異なる発音だった−上代特殊仮名遣い−/上代特殊仮名遣いを発見したのは誰か/上代特殊仮名遣いの正体
第3章 古代日本の音韻
 「衣」と「江」、「お」と「を」/「いろはうた」の秘密/サ行子音の変化/タ行子音の変化/ハ行子音の変化/『万葉集』にある古代の音の響き
第4章 日本語の仮名遣い
 仮名の起源/五十音図のすき間には何があるのか/ハ行転呼音(1)−私は学校へ行く−/ハ行転呼音(2)/古代日本語の音韻が激変して何が起こったか−藤原定家の『下官集』−/歴史的仮名遣いは古代日本語のタイムカプセル/「氷」はなで「こおり」と書くのか/「ふぢ」は「フディ」?−四つ仮名−
第5章 日本語と漢字
 漢語の影響によって日本語の発音が変わった/開音と合音(1)−最後はすべて「ヨー」になっる−/開音と合音(2)−室町時代の開音と合音−/「因縁」の「縁」はなぜ「ネン」なのか−連音−/「埼玉」はなぜ「サイタマ」と読むのか−音便−/「日本」はニホンかニッポンか
第6章 現代語の問題点
 「願わくは」が「願わくば」か−ク語法−/「眠れる森の美女」の意味が分かりますか?/「やばい」ということばはヤバイです/「ちげーよ」は「江戸っ子の使うことばではない/「ら抜きことば」とは何か
第7章 日本語の未来
 「ら抜きことば」の果てにあるもの/日本語母国語の人口/これからの国語教育について−私たちは言語変化とどう向き合うべきか−
おわりに
参考文献

 2011年11月1日付け中日新聞夕刊の「読者の森」の欄の「自著を語る」で本書が紹介されていて、その新聞記事に関する感想は既にこのブログに書いたが、とりあえずは本書を読んでおくべきではないかと思っていたところ、三重県立図書館に所蔵されていたので借りてきて読んだ。
 とは言え、途中まではあまり面白くなかったので途中で読むのをやめ、第6章以降をあらためて読んだ。
 新聞記事を読んだときに書いたとおり、この著者は「学者」としての資質に欠けているのではないかと思ったが、本書を読んでみても、やはり論理に一貫性がなく、最初の印象と変わるどころか、さらにヒドいのではないかと感じられた。とりあえず本文を引用しておこう。

 現在、一部の日本語研究者の中には、本来誤用であるはずの「ら抜きことば」を。可能動詞の範囲が拡大したものだからと擁護したり、あるいは言語変化は当然のことだからと「ら抜きことば」の拡大をむしろ助長するような発言をしたりする人がいますが、そのような発言を耳にすると研究者としての見識を疑います。(p.316)
 これはヒドイと言わざるをえない。言葉の研究者の仕事は、浅川氏のように「とりあえず規範とされている文法を固守する」ことではなく、「同一性の追求」であると思う。具体的には、言葉の由来や他の言語との関係を探ったり、言葉が変化したのなら、その現状を把握し、その原因を探ったりすることであろう。まず、浅川氏は「ら抜きことば」が方言に存在することを知っていながら、それを無視して「誤用」だと根拠もなく言っているが、この態度は「現在正しいとされている日本語文法を唯一正しいものとする原理主義」にほかならないと思う。第1章では、日本が変化してきた歴史について自ら解説しているにもかかわらず、現代の日本語の変化を認めようとしないことは、はっきり言って論理性に欠けていると思う。方言を排除しようという態度も東京原理主義的である。また、日本語が絶滅するのを憂えながら、方言を排除しようとする態度は矛盾している。
 「ら抜きことば」を問答無用で「誤用」と決めつけているにもかかわらず、もうひとつ突っ込みが足りないと思うのは、「なぜ『ら抜きことば』が拡大しているのか」ということの理由を全く追求していないからであろう。このことからも、浅川氏が研究者あるいは学者としての資質を欠いていると思われる理由になっていると思う。「ら抜きことば」を「誤用」と決めつけるのは、浅川氏の「個人的な趣味」に過ぎないように思えるし、「ら抜きことば」が拡大していくのを悲しんでいるのは、浅川氏にとっての理想の日本語に対する郷愁に過ぎないように思える。
 「ら抜きことば」が拡大しているのを悲しんでいるのは、外来生物が日本に定着するのを快しと思わない生物愛好家と同じことではないかと思う。
 最後にかつてボクがtwitterでつぶやいた言葉をもう一度ここに書いておこう。浅川哲也氏は「誤用学者」である。

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2012年6月22日 (金)

永井 愛著『ら抜きの殺意』

永井 愛著『ら抜きの殺意』

而立書房
ISBN4-88059-249-8
1,500円+税
1998年2月25日発行
150 pp.

登場人物
 海老名俊彦/伴 篤男/遠部その子/宇藤樹里/雨宮直人/日下 勉/殿村金弥/堀田八重子/堀田与平

上演記録
 テアトル・エコー第105回公演
 1997年12月5日(金)〜11日(木)
 紀伊國屋アザンシアター
スタッフ
 作・演出 永井 愛/美術 島 次郎/照明 中川隆一/衣裳 竹原典子/音響 深川定次/演出助手 保科耕一/舞台監督 小山博道/舞台監督助手 金子武男 加藤美江/方言指導 萩生田千津子/製作 明石 誠 テアトル・エコー
キャスト
 海老名俊彦 安原義人/伴 篤男 落合弘治/遠部その子 雨蘭咲木子/宇藤樹里 吉川亜紀子/雨宮直人 藤原堅一/日下 勉 後藤 敦/殿村金弥 梶 哲也/堀田八重子 牧野和子/堀田与平 熊倉一雄

 本書は戯曲である。普段は文学作品など滅多に読まないので、何でこんなものを読んだかと言えば、ボクが「ら抜き言葉」に興味があるからにほかならない。しかし、なぜこんな作品の存在を知り得たかと言えば、なぜか生物学の本(柴谷篤弘著『構造主義生物学』)に参考文献としてリストに上がっていたからである。三重県立図書館の蔵書検索をしたら、書庫に所蔵されていることがわかったので、さっそく書庫から出してもらって借りてきて読んだ。
 この戯曲の中では、ら抜き言葉に我慢できないアルバイト社員の海老名俊彦と、ら抜き言葉を使う正社員の伴 篤男の間の対立が描かれている。それぞれの弱みを相手に知られてしまい、海老名俊彦がら抜き言葉を使わざるをえなくなり、伴 篤男がら抜き言葉の使用を禁止されるという状況になり、お互いに険悪な関係になる。
 別の場所では女らしい言葉にまつわるやりとりや、田舎の方言をめぐるやりとりもあり、日本語表現の豊かさを考えさせられる作品になっている。
 作者はら抜き言葉に我慢ができないタイプの人間とのことであるが、最後は方言もおおらかに認めましょう、というような締めくくりになっており、好感が持てる作品であると感じた。
 途中で思わず吹き出してしまうことが何度もあり、娯楽作品としてももちろん楽しめる。オススメ。

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2012年1月 8日 (日)

斎藤美奈子著『文章読本さん江』

斎藤美奈子著『文章読本さん江』

筑摩書房
ISBN4-480-81437-X
1700円+税
2002年2月5日発行
262 pp.

目次
はじめに
I サムライの帝国
書く人の論理−文章読本というジャンル
静かな抗争−定番の文章読本を読む
II 文章作法の陰謀
正論の迷宮−文章読本の内容
階層を生む装置−文章読本の形式
修行の現場−文章読本の読者
III 作文教育の暴走
形式主義の時代−明治の作文教育
個性化への道−戦前の綴り方教育
豊かさの中で−戦後の作文教育
IV 下々の逆襲
スタイルの変容−文章読本の沿革
様々なる衣装−文章読本の行方
あとがき
引用文献/参考文献

 清水義範著『はじめてわかる国語』で紹介されていたので、図書館から借りてきて読んだ。
 文章読本とは何か?それは文章を書く上での作法などが書かれている書物である。ぼくは「文章読本」と名がつく本は読んだことがないのでよく知らなかったが、谷崎潤一郎のものがその元祖であるとのことである。その後、三島由紀夫や丸谷才一や井上ひさしなども書いている。
 清水義範氏が『はじめてわかる国語』の中で本書について、「この本を読んだ後ではいかなる文章読本に類する本は書けなくなる」というような趣旨のこと書いているように、この本は「文章読本」のおかしなところが、ぶった切りにされているところが痛快に感じられる。裏表紙に「斬捨御免あそはせ!文章読本さん江」と書かれているが、まさにこの本の内容を一言で言い表している。
 恥ずかしながらボクも昆虫同好会の連絡誌に「報文を書くためのコツ」なる表題の、まさにこの文章読本に分類されるような雑文を書いたことがあるが、そのときは「記録を持っているのに報文を書いたことがない人がたくさん存在していること」をもったいないことだと思って、その助けになれば良いかと思って書いたのだが、本書を読むと、その行為が恥ずかしいことのように思えてくる。
 本書には、実にたくさんの文献が引用されており、巻末に引用文献のリストも付けられている。一般向けの書物であるはずの本書ではあるが、本書のような口語調の「語り口」を文語調に変えれば十分に学術文献としても通用しそうな感じでもある。たいへん読み易いし、「文章の書き方」そのものに興味がある人には、ぜひともお勧めの書である。(もう10年近く前の出版なので、興味がある人は大抵は既読だろうけれど。)

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2011年12月 6日 (火)

清水義範著『はじめてわかる国語』

清水義範著『はじめてわかる国語』 え・西原理恵子

講談社
ISBN4-06-211607-3
1700円+税
2002年12月16日発行
317 pp.

目次
第一話 国語って正体不明の学科だった
第二話 国語入試問題必敗法
第三話 たまには生々しい話を
第四話 悩ましきかな漢字
第五話 どう書きゃいいのだ日本語
補習 漢字と日本人のなやましい関係 対談ゲスト 高島俊男
第六話 話すこと、聞くこと
第七話 あの歌はこんな意味だった
第八話 挨拶は丁寧に
第九話 谷崎『文章読本』の功罪
補習 文章読本の真相 対談ゲスト 斎藤美奈子
第十話 日本語は滅んでしまうのか
あとがき

 石垣島に住んでいたときに石垣市立図書館で借りて読んだことがあったが、津市津図書館にもあるのを見つけて、もう一度読みたくなって借りてきて読んだ。8年ぶりぐらいに読んだことになるが、詳細は忘れていたので新鮮な気持ちで読むことができた。
 本書は、名古屋市出身の作家、清水義範氏の「国語」に関するエッセイ集で、「小説現代」2001年11月号から2002年10月号に連載されていたものをまとめたものである。
 ボクも常々「国語」とは正体不明な学科だと思っていたので、同意させられる部分が多々あった。小学校から高校まで、「国語」の授業を受けてきたが、あとから思えばぼくが受けてきた「国語」の授業は「日本語」の授業とは言い切れず、「文学」であったり「道徳」であったりした部分が多分にあったように思う。
 ボクは「国語」を常に苦手科目としていた。試験問題で後から「正解」が示されたときも、それがなぜ正解になるのかが理解できないことが非常に多かったからである。「そのとき主人公はどう思ったでしょう?」などという問題を出されても、正解が全くわからないのだ。清水義範氏には「国語入試問題必勝法」という小説作品があり、このあたりのことをおちょくっているのだが、これも実に面白かったという印象が残っている。
 本書には、それらのことなども話題にされており、「うんうん」とうなずきながら読むことになった。こういうわけのわからない「国語」を教えている学校の先生は、さぞ大変なことだろうな、と思わざるをえない。
 本書の中には、斎藤美奈子さんとの対談も収められており、斎藤美奈子さんの著書『文章読本さん江』も話題にされている。これも読まなければいけないと思う。

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2011年11月 2日 (水)

「ら抜き言葉」(2011年11月2日)

 夜中に蚊に刺されて目が覚めたら眠れなくなってしまった。困ったことである。仕方がないので、こんなことを夜中に書いている。

 ところで、11月1日付け中日新聞夕刊の「読者の森」の欄の「自著を語る」に『「ら抜き言葉」の果ては?』という表題で、『知らなかった!日本語の歴史』という本の著者の浅川哲也氏(首都大学東京准教授)の主張が書かれていた。
 ここでは、「ら抜き言葉」は現代日本語の乱れであり、「誤用」であるとはっきり述べられている。しかしボクは、そこに東京の言葉しか見ていない東京原理主義的な驕りを感じた。
 ボクが生まれ育った尾張地方の言葉は「ら抜き言葉」であるし、今住んでいる伊勢地方の言葉も「ら抜き言葉」である。例えば「食べることができない」は尾張であれば「食べれーせん」であるし、伊勢では「食べれやん」である。
 そのように、まず「ら抜き言葉」が現代日本語の乱れと捉えることがおかしい。「ら抜き言葉」は地方の言葉として昔から存在していたのである。おそらく他の方言にも「ら抜き言葉」はたくさん存在しているであろう。
 つぎに何故「ら抜き言葉」が広まっているのかということを考えることも大切だと思う。「ら抜き言葉」が広がるにはそれなりの長所があるからに決まっているではないか。そこのところの考察を抜きにして「ら抜き言葉」が「誤用」であると断定する浅川氏は、学者として資質を欠くのではないか?
 まず、「食べられない」では「可能」なのか「尊敬」なのか「受け身」なのか文脈から区別するしかないではないか。「来られない」でも同様である。そこを「食べれる」とか「来れる」にすれば、文脈を見なくても「可能」であることが簡単に分かる。その点で、「ら抜き言葉」はより論理的に表現できるという長所がある。ボクは論理的な文章を書くことが仕事であるから、間違っても「食べられない」とは書かない。そういう場合には「食べることができない」と書く。
 「ら抜き言葉」は文法的に間違っているという主張なのかも知れないが、文法というのは「そもそも文法ありき」ではなく、その時代に使われていた言葉の使用法の法則を説明したものが「文法」ではないのか?
 以上のように、素人であるボクが考えただけでも、浅川氏の主張が論理性に欠いているということを指摘できる。
 浅川氏の著書を読んだわけではないが、「日本語の歴史」とは言っても、日本各地の言葉を拾い上げたのではなく、その時代に権力を持っていた人が暮らしていた地方の言葉の変遷を取り上げただけではないかと想像する。
 地方を無視する浅川氏は視野が狭すぎる。


【2011年11月5日追記】
ネットにも記事がでていました。リンクを張っておきます。
http://www.tokyo-np.co.jp/book/jicho/jicho20111101.html

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2011年5月 5日 (木)

酒井聡樹著『100ページの文章術』

酒井聡樹著『100ページの文章術 わかりやすい文章の書き方のすべてがここに』

共立出版
ISBN978-4-320-00585-3
1,000円(税別)
2011年3月15日発行
vii+100 pp.

はじめに
目次
第1章 文章術の前に
1.1 読者のために、あなたのために、わかりやすい文章を書こう
1.2 文章の理解とは
1.3 記憶の仕組み
1.4 わかりやすい文章とは
第2章 文章の構成要素
2.1 文章の構成
2.2 章・段落
2.3 文
第3章 文章全体としてわかりやすくるす術
3.1 骨格を練る
3.2 無駄な情報を削る
3.3 一度に一つの話題だけを扱う
3.4 何の話をするのかを前もって知らせる
3.5 前の文の要素を、次の文の話題とする
3.6 読者が知らないであろうことは説明する
第4章 一つ一つの文をわかりやすくする術
4.1 わかりやすい文を書くための心構え
4.2 一つの文で一つのことだけを言う
4.3 語順:重要な要素を先にする
4.4 語と語との修飾関係を明確にする
4.5 係り受けを確認する
4.6 漢字とカナの混じり具合
参考文献

 「これ論」(「これから論文を書く若者のために」)などでお馴染みの酒井聡樹さんの最新刊である。著者である酒井聡樹さんのウェブサイトはこちらで、ここにはこれまでの著書が紹介されている。植物生態学者・進化学者である酒井聡樹さんは、文章を書くことは本来は専門外だと思うのだが、論文を書くことや、学会でのプレゼンテーションを効果的に行うための技術についても情熱を燃やされているようで、これまでにも何冊もの著書があり、ここに紹介されている著書は、みな売り上げ好調のようである。
 ぼくはマニュアルはあまり好きではないのだが、わかりやすく効果的な文章を書くことについては、それなりに考えているので、自分の考え方が間違っていないかどうかを確認するために、この本を読む気になった。幸い、県立図書館に所蔵されており、借りてきて読むことができた。ちなみに、酒井聡樹さんのプレゼンテーションに関する講演は一度聴いたことがあるが、著書を読むのは初めてである。
 大雑把な感想としては、たった100ページに、わかりやすい文章を書くための要素が過不足無く盛り込まれている、というところである。ぼくが書く文章(このブログも含む)は決して良い文章ではないと思うが、自分が考えていた「わかり易い」文章の考え方は、基本的には間違っていないと再確認できた。
 ぼくにとって、まだ完成されていない他人の文章を読む機会には、論文の査読がある。査読に回ってるる論文には、わかり易い文章を書いてくる人はもちろんあるが、何を言いたいのかわからない文章を書いてくる人も無いわけではない。わかりにくい文章には、文章の構成にもケチを付けることがある。よくある「わかりにくい論文」には、記述が単に時系列になっている場合のことが多い。もちろん実験なり調査なりは、時系列で行われたであろうが、それをその順序で書いたからと言って、それが読者にとってわかりやすいという保証は何もない。その理由は本書を読めば理解できる。
 本書には「わかりやすい文章」を書くためのエッセンスが凝縮されており、2〜3時間もあれば読めてしまうほどの分量でもある。内容を理解してもらうための文章を書く人には、文句なしにお勧めできる。
 さいごに酒井聡樹さんへ。図書館で借りてしまったので、印税収入に結びつかなくて申し訳ないです。

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2011年5月 2日 (月)

電気が流れています。ふれるとキケンです。(2011年5月2日)

20110502blog1
 職場の庭に調査に出たら、職場の隣の田圃に電気柵が張り巡らされているのに気づいた。こちらに転勤してきて以来、この田圃に電気柵が設置されたことはなかったので、今年が初めてである。小さな田圃ではないが、かと言ってそれほど大きな田圃でもない。おそらく何かの動物対策なのだろうと思うが、それほど収量が見込めるわけでもないと思われる場所に、不相応なほどの投資がされているように思えた。でも、田圃を荒らされるのは悔しいからなのだろうと思う。
 ここには「電気が流れています。ふれるとキケンです。」と書かれているが、この文章は論理的におかしい。「高い電圧がかかっています。ふれるとキケンです。」なら正しい。何かが電線に触れなければ電流は流れないからだ。まだこの時点では電流は流れていない。もう少し書けば、「電気が流れています。」というのも、それだけでおかしいと思う。「電流が流れています。」の方が良いと思う。
 「電気が流れています。ふれるとキケンです。」でも言わんとすることはわかるから、こういう細かい突っ込みは野暮なのかも知れないが、ついつい気になってしまうのだ。

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2011年2月11日 (金)

虫寿

 今日は三重県の蝶屋の重鎮Nさんの虫寿のお祝いがあった。虫寿という言葉は虫屋の間でしか通用しないと思うが、要は64歳のお祝いのことである。もちろん語呂合わせ。
 その虫寿のお祝いの席で「虫寿」をどう読むかが話題になった。「ちゅうじゅ」か「むしじゅ」か?
 ぼくは「ちゅうじゅ」だと思っていたが、Nさんは「むしじゅ」が良い、ということで、「むしじゅ」ということになりそうだ。

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2009年9月11日 (金)

2年ぶりの神戸・・・関西病虫害研究会に参加

 神戸で開催される関西病虫害研究会の第91回研究発表会に参加するため、昨日から神戸に行った。昨日は移動日で、長男が使い残していた「青春18きっぷ」が1回分あったので、それを使っていわゆる「乗り潰し」をした。新しく乗ったのは、JR東西線の尼崎から放出までとおおさか東線の放出から久宝寺駅まで。電車の中では、誕生日にアレクス君から贈られた『フェルマーの最終定理』を読み終えた。長い本なので読み終えるのに数日かかったが、わくわくさせられるような面白い本だった。夕方は同僚と落ち合って、神戸元町の南京町の中華料理店で夕食をとった。
 朝は早めに起きてホテルの1回のロビーで簡単な朝食をとった。喉が渇いていたせいか、ジュース1杯、スープ2杯、コーヒー3杯も飲んでしまった。南京町の西安門の近くのホテルから会場までは歩いて12〜13分だった。するとそこにあったのは、「小泉八雲旧居跡」という碑。小泉八雲と言えば松江、という印象しかなく、神戸にも住んでいたとは知らなかった。
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 一応関西病虫害研究会の事務局なので、会場では受付に座っていた。講演が始まると講演会場へ。
 昼食は神戸出身のIさんの案内で、美味しいという噂のラーメン屋へ。地下鉄の駅で2/3駅ほど西へ歩く。「神戸の中華そば・もっこす本店」。
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 昼食時のセットメニューがお得ということで、それを注文。中華そば+餃子+御飯で800円。なかなか美味しいラーメンだった。ただの中華そばなのにチャーシューが多かった。中華そばとは別にチャーシューメンというメニューもあったが、どれぐらいチャーシューが乗っているかを想像すると恐ろしい。お腹がいっぱいになり、午後からは目の皮も弛みがち。
 夕方4時半前に講演会は終了。同僚は軽い打ち上げに参加するということだったが、ぼくは一人でさっと阪神元町駅に向かう。目的地は大阪なにわ筋のマジックスパイス大阪なにわ店。ここで食べれば、マジッックスパイスの全国4店を全部制覇したことになる。3月の札幌4月の東京下北沢6月の名古屋大須に続いて半年で達成ということになる。関西病虫害研究会の研究発表会は、本当は5月に予定されていたのだが、例のインフルエンザ騒ぎで延期になっていたので、その騒ぎが無ければ、3月末から6月半ばまでの3か月で達成できていたはずだった。マジックスパイス大阪なにわ店の最寄り駅は桜川だが、阪神なんば線の乗り潰しのため、大阪難波まで乗り、大阪難波駅から現地に向かった。
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 注文したのは、チキンの涅槃。辛さは札幌の涅槃とほぼ同様。名古屋大須の涅槃は異様に辛かったので、やはり店によって辛さの基準が違うように思える。野菜の量も多く、満足。満足度の順番は、名古屋大須≧札幌≒大阪なにわ≫東京下北沢、ということろか。
 マジックスパイスでのでの食事を終え、再び大阪難波駅へ。19:00発のアーバンライナーの切符を買う。近鉄特急に乗るのはほぼ2年ぶり。2年前に神戸大学で昆虫学会の大会が開催されたとき以来だ。それまではちょくちょく乗っていたのだが。まあ、このところ大阪方面に行く用事がなかったということなのだろうと思う。津に着いたのは夜8時半前。自宅には戻らず、そのまま三重昆虫談話会のサロンの会場に向かう。今日は盛会で8人も集まった。甲虫の和名の話(「ルリクワガタ」を「オオルリクワガタ」にするべきかどうか、とか)や、オオトラカミキリやカワラハンミョウの話など、話題も多かった。夜10時半前に散開。楽しい時間だった。

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