ことば

2009年9月11日 (金)

2年ぶりの神戸・・・関西病虫害研究会に参加

 神戸で開催される関西病虫害研究会の第91回研究発表会に参加するため、昨日から神戸に行った。昨日は移動日で、長男が使い残していた「青春18きっぷ」が1回分あったので、それを使っていわゆる「乗り潰し」をした。新しく乗ったのは、JR東西線の尼崎から放出までとおおさか東線の放出から久宝寺駅まで。電車の中では、誕生日にアレクス君から贈られた『フェルマーの最終定理』を読み終えた。長い本なので読み終えるのに数日かかったが、わくわくさせられるような面白い本だった。夕方は同僚と落ち合って、神戸元町の南京町の中華料理店で夕食をとった。
 朝は早めに起きてホテルの1回のロビーで簡単な朝食をとった。喉が渇いていたせいか、ジュース1杯、スープ2杯、コーヒー3杯も飲んでしまった。南京町の西安門の近くのホテルから会場までは歩いて12〜13分だった。するとそこにあったのは、「小泉八雲旧居跡」という碑。小泉八雲と言えば松江、という印象しかなく、神戸にも住んでいたとは知らなかった。
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 一応関西病虫害研究会の事務局なので、会場では受付に座っていた。講演が始まると講演会場へ。
 昼食は神戸出身のIさんの案内で、美味しいという噂のラーメン屋へ。地下鉄の駅で2/3駅ほど西へ歩く。「神戸の中華そば・もっこす本店」。
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 昼食時のセットメニューがお得ということで、それを注文。中華そば+餃子+御飯で800円。なかなか美味しいラーメンだった。ただの中華そばなのにチャーシューが多かった。中華そばとは別にチャーシューメンというメニューもあったが、どれぐらいチャーシューが乗っているかを想像すると恐ろしい。お腹がいっぱいになり、午後からは目の皮も弛みがち。
 夕方4時半前に講演会は終了。同僚は軽い打ち上げに参加するということだったが、ぼくは一人でさっと阪神元町駅に向かう。目的地は大阪なにわ筋のマジックスパイス大阪なにわ店。ここで食べれば、マジッックスパイスの全国4店を全部制覇したことになる。3月の札幌4月の東京下北沢6月の名古屋大須に続いて半年で達成ということになる。関西病虫害研究会の研究発表会は、本当は5月に予定されていたのだが、例のインフルエンザ騒ぎで延期になっていたので、その騒ぎが無ければ、3月末から6月半ばまでの3か月で達成できていたはずだった。マジックスパイス大阪なにわ店の最寄り駅は桜川だが、阪神なんば線の乗り潰しのため、大阪難波まで乗り、大阪難波駅から現地に向かった。
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 注文したのは、チキンの涅槃。辛さは札幌の涅槃とほぼ同様。名古屋大須の涅槃は異様に辛かったので、やはり店によって辛さの基準が違うように思える。野菜の量も多く、満足。満足度の順番は、名古屋大須≧札幌≒大阪なにわ≫東京下北沢、ということろか。
 マジックスパイスでのでの食事を終え、再び大阪難波駅へ。19:00発のアーバンライナーの切符を買う。近鉄特急に乗るのはほぼ2年ぶり。2年前に神戸大学で昆虫学会の大会が開催されたとき以来だ。それまではちょくちょく乗っていたのだが。まあ、このところ大阪方面に行く用事がなかったということなのだろうと思う。津に着いたのは夜8時半前。自宅には戻らず、そのまま三重昆虫談話会のサロンの会場に向かう。今日は盛会で8人も集まった。甲虫の和名の話(「ルリクワガタ」を「オオルリクワガタ」にするべきかどうか、とか)や、オオトラカミキリやカワラハンミョウの話など、話題も多かった。夜10時半前に散開。楽しい時間だった。

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2009年8月 8日 (土)

我が家にドイツ人学生がきた

 妻の意向により、今日から一か月弱の間、三重大学に来るドイツ人学生のホームステイを受け入れるホストファミリーになることになっていて、今日、本人がやってきた。夕方には、他のドイツ人学生や他のホストファミリーとの交歓会もあった。
 我が家にきたアレクス君の日本語歴は2年ということだが、日本語での会話にあまり不自由はないという感じだ。少なくとも、ぼくのドイツ語よりは遥かにレベルが高い。
 こんなことを書くと、我が家は広い家に住んでいるように思われるかも知れないが、長男の部屋をアレクス君に使ってもらって、長男が別の部屋に移動した。長男は部活で忙しく、家にはほとんど寝るためだけに帰っている感じなので、それでもほとんど問題はない。

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2008年12月30日 (火)

虫屋仲間でプチ忘年会

 名古屋出身で東京在住の虫屋のIさんが帰省するのに合わせて、名古屋でプチ忘年会をすることになった。集まったのは岐阜県在住の甲虫屋のTさん、静岡県在住の蝶屋のSさんとぼくの、全部で4人。SさんはIさんの大学時代の同期とのことだが、ぼくにとっては初対面になる
 せっかく名古屋に出かけるので、午前中に家族と一緒に名古屋に出て、想吃担担面で汁なし担々麺とマンゴープリンを食べ、地下鉄の桜通線と鶴舞線を乗り継いで大須観音へ。大須観音にお参りして、商店街へ。電子部品屋や息子らのためのゲームソフト屋や中古CD屋や沖縄物産店で買い物し、上前津駅から地下鉄名城線と東山線を乗り継いで名駅へ。テルミナの三省堂で本を見て、山積みされていた「読めそうで読めない間違えやすい漢字」という本を見たら、500円と安かったので、買ってしまった。そのうち、漢字検定のひとつ上の級を受けてみようと思う。
 午後3時半頃に家族は帰宅の途へ。そのあと一人で、JR高島屋の東急ハンズや三省堂で時間をつぶす。一人で名古屋に出てきても、なかなか行く機会が無い場所だけに良い時間つぶしになった。ところが、不意の腹痛でトイレに座ることしばし。それなりに奇麗なトイレだたので気分は悪くなかった。三省堂に行くと、様々な本が出ていることに気付かされる。いろいろ買いたい本はあったが、本を増やすのも問題なので、そのうち、また図書館にリクエストしてみようと思う。
 午後6時の集合時刻には全員が集合。中央郵便局の北にあるルーセント2階の琉球ダイニング「どなんち」へ。それなりに洒落た店だが、あまり琉球風ではない。泡盛の銘柄だけはたくさん揃っていた。料理はそれなりに美味しかったが、ごく一部を除き、本場琉球のものと言うには違和感のあるものが多かった。
 虫の話や虫屋の「業界」の話に花を咲かせ、ゆったりとした時間を過ごすことができ、名古屋まで出た甲斐があったというものだ。
 電車がなくなる、というSさんと別れてから3人でホテルの喫茶店で二次会。ぼくもあまり遅くなるのは辛いので、適当な時間に切り上げ、午後10:01発の近鉄急行で帰宅の途へ。
 津駅から帰る途中、空を見上げたら、奇麗に星が見えた。12月23日にもよく星が見えたが、それと同じぐらい良く見えた。時間が遅いので、オリオン座は南の空のかなり高い所に見えた。風があり、かなり寒い。

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2008年12月15日 (月)

東(あゆ)の風

 つい最近のことだが、メモを取らなかったので、どこに書かれていたのか思い出せないが、東(あゆ)の風のことである。
 そこに書かれていたことによれば、東の風は幸せを運んでくる、という言い伝えが愛知県を中心にあるそうだ。「あいち」という名前も「あゆち」から来ているらしい。そこで思い出したのが、ぼくが卒業した小学校の校歌だ。
 この校歌は、小学生としてのぼくが理解するにはちょっと難しく、ただ意味もわからず、記号と化した言葉を憶えて歌っていた。そこに「幸送り吹く 東の風」という一節があり、これも意味が解らなかった。あらためて歌詞を見てみても、読みにくい言葉がたくさんあり、とても小学校の校歌とは思えない。同じ「つたえ」と読むことばに、「嗣承」、「伝統」、「伝承」の3通りの漢字が使われている。
 そういう校歌の小学校を卒業したものだから、進学した中学校の校歌があまりに幼稚に思え、ちょっと情けなく思えたものだ。

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2008年8月16日 (土)

加賀野井秀一著『日本語の復権』

加賀野井秀一著『日本語の復権』
1999年7月20日発行
講談社現代新書1459
ISBN4-06-149459-7
660円+税

 近頃、ことばについて気になってしまうことがしばしばある。自分で科学論文を書いたり、昆虫同好会誌の編集をしていたりしているせいもあると思う。科学論文は英語で書くことが多いが、地方の研究会誌には日本語で書くことがほとんどであるが、英語の文章表現をあまり知らないがために、日本語で論文を書く場合に、かえって日本語の難しさを感じさせられる。科学論文は明快である必要があると思うのだが、日本語で明快に客観的な事柄を表現するのは難しいと感じてしまうのだ。
 そこで、図書館の新書の棚を眺めていて、たまたま目についたこの本を読んでみることにしたのだが、この本は日本語について様々な観点から利点や欠点が整理されており、それと日本人の行動様式との関連も述べられていて、大変面白かった。
 とくに目から鱗が落ちたと感じたのは、「記号化」することと「記号操作」の関係についてだ。新しい事柄を書き記すには「記号化」が必要であるが、日本人は日本語として記号化すること(詞)をおろそかにして、「記号を操作すること」(辞)ばかりに精力を費やしてきて、そのために、変化が激しい現代という時代をうまく乗り越えられていないのではないか、というところなどは大変に納得させられた。
 よく「日本語はあいまいな言語だ」という話は聞いたことがあり、自分もそう感じていたのだが、それが決して日本語の特質ではなく、それをうまく使いこなしてないだけだ、ということがこの本を読んでよくわかった。
 著者の専門は仏文学、現代思想、言語学であり、日本語は決して専門ではない。だからこそ、ブロの日本語学者や国文学者が書けないようなこと、あるいは気付いていないようなことを書けたのではないかと思う。
 ちょっと古い本ではあるが、日本語に興味を持たれた方には、ぜひ一読をお勧めしたい。

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2008年7月 2日 (水)

今年初めてキリギリスの鳴き声を聞いた

 ちょっとした実験のため、離れの実験棟に出かけたら、裏の道からキリギリスの鳴き声が聞こえた。今年の初鳴きの確認となる。キリギリスは真夏の虫と言っても良い虫なので、日中は暑くなってきたとは言え、今年は朝夕まだ涼しいので、キリギリスの鳴き声が聞こえるのはもっと先のことかと思っていた。しかし、ニイニイゼミの鳴き声も着実に増えているし、本当の夏が近づいているのは確かだろう。
 このブログに一度書いたことがあるが、後京極摂政太政大臣の「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねむ」という歌に詠まれているキリギリスは、現代のコオロギ(さらに詳しく書けば、おそらくツヅレサセコオロギ)のことだ。霜夜にキリギリスが鳴くわけがない。

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2008年4月 6日 (日)

芳沢光雄著『数学的思考法』

芳沢光雄著『数学的思考法』
説得力を鍛えるヒント
2005年4月20日初版発行
講談社現代新書 1786
ISBN4-06-149786-3
700円+税

 著者は数学教育に深く関わっている数学者である。
 数学に関する本かと思って読み始めたのだが、論理的な思考の重要性を強く訴える内容だということがわかった。したがって、いわゆる理系に関する事柄だけでなく、いわゆる文系に関わる内容ももりだくさんであった。副題の「説得力を鍛えるヒント」こそが書名になっても良いぐらいである。
 説得力を持たせるためには、データと論理の両方がバランス良く配置することが重要であると強調されており、これはまさに論文を書くときに注意しなければいけないことと同じであると思った。
 それぞれの節は数ページに短くまとめられており、大変読みやすい本であった。論理的な思考が苦手な人には是非読んでもらいたい本だと思う。

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2008年4月 4日 (金)

清水義範著『スラスラ書ける!ビジネス文書』

清水義範著『スラスラ書ける!ビジネス文書』
2006年4月20日初版発行
講談社現代新書 1834
ISBN4-06-149834-7
720円+税

 清水義範氏は、ぼくが説明するまでもなく、「パスティーシュ(模倣)」という手法を得意とした作家だが、文章に関する著書もいろいろある。このブログでも「大人のための文章教室」についても少し触れた
 この本では、「何のために文章を書くのか」ということが常に意識されている。「ビジネス文書」とは銘打ってあるが、ビジネス文書だけでなく、科学論文を書くためにも随分参考になることが書かれていると思った。
 とにかく、文章は誰かに読まれることを前提として書かれているものだ。このブログも、自分の備忘録として書いているという意味はあるのだが、誰か他人に読んでもらうことも、当然のことながら想定している。
 このブログが読みづらいとすれば、まだまだぼくの修行が足りないという事だ。

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2008年1月11日 (金)

フランス訛りのフォーレ

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 本当に久しぶりにコンサートに出かけた。三重県総合文化会館でリゴレットを観て以来のような気がしたので、何時のことだったか調べてみたところ、何と2004年10月11日のことだった。その後、気分が落ち込むことが多く、コンサートに行く気にならなかったことも影響していると思う。その前だったか後だったか合唱団「うたおに」や<<EST>>のコンサートにも行ったような記憶があるが、いつの事だったか、全く憶えていない。記憶力の減退が甚だしい。
 今日のコンサートは宇田川さんという人が指揮をして合唱団「うたおに」がフォーレのレクイエムを歌う、という話だけを聞いて、妻に誘われるままに出かけた。特に大きな期待はしておらず、気分転換ぐらいになるのではないかと思ったのだが、これは良い意味で大きな誤算だった。
 指揮は宇田川貞夫さん。昨今の音楽界の事情には疎いので、どんな人だかよく知らないが、妻によれば素晴らしい音楽を作る人だということだ。とにかく、プログラムとその演奏内容が凝っていた。ある種のマニアックなものを感じた。
 プログラムは以下のとおり。

  • 小ミサ Messe basse/ Gabriel Fauré
  • ラシーヌ賛歌 作品11 Cantique de Jean Racine/Gabriel Fauré
  • レクイエム 作品48 Messe de Requiem/Gabriel Fauré

 これを書いただけならすべてフォーレの作品であること以外は何の変哲も無いものだが、内容はそうではなかった。
 最近では、オリジナルにこだわる演奏も色々あるようだが、このコンサートはまさにそれだった。ラシーヌ賛歌はもともとフランス語の歌詞がついているが、そのほかはラテン語だ。しかし、「曲が作られた当時はフランス訛りのラテン語で歌われていたはずだ」、ということで、ラテン語の歌詞はすべてフランス語読みだった。小ミサ曲のKyrieの部分はぼくがこれまで聞いていた歌詞と違いは無かったが、2曲目のSancutusに入った途端、「サンクトゥス」が「サンクティス」になり、「ドミヌス」が「ドミニス」になっていた。以下、数え上げればきりがない。
 Cantique de Jean Racineもぼくが大好きな曲だが、通常の演奏と違って、前半部分が繰り返して演奏された(と思う。好きな曲だが、もう久しく聴いていないので、勘違いかも知れない)。
 有名なレクイエムも、今日通常演奏される7曲ではなく、最初には無かったとされる第2曲のOffertoireと第6曲のLibera meは演奏されなかった。もちろん「レクイエム」ではなく「レキエム」だ。
 もう一つ書かねばならないことは、演奏される楽器が、すべてのパートが一人ずつだったことだ。こんなのも初めての経験だ。
 演奏内容はいずれも素晴らしかった。独唱と楽器の演奏者はプロだから、それなりの演奏ができてあたりまえだと思うのだが、アマチュアの合唱団(とは言え、コンクールで全国優勝したこともあるのだが)である「うたおに」の演奏も、指揮者の考えを忠実に声にしていたと思う。
 アンコールではAve verum corpusが演奏されたが、これもフォーレの曲かと思ったら、サン-サーンスの曲とのことだった。もちろんこれも、フランス語訛りのラテン語だった。アンコールの2曲目は第2ステージのCantique de Jean Racine。
 とにかく、最初の期待を大きく裏切られ、満足できる演奏会だった。普通の曲を普通に演奏しても面白みが無いものだが、やはり趣向が凝らされた演奏は、それなりに満足できるものだと思った。
 「うたおに」による解説、感想はこちら

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2007年6月 8日 (金)

虫の名前は《記号》・・・だと思う

 昆虫はやたらに種類が多い。それに名前を付けようと思うから大変だ。しかし、区別するためには名前を付けなければ始まらない。ところが困ったことに、近年「差別用語」として使用が控えられるようになった言葉がやたら増えて来た。しかし、昆虫の名前には「差別用語」としてしばしば扱われる言葉を含むものがたくさんある。これを何とかすべきだという動きもあり、学名でMiridaeと呼ばれているカメムシ類の一群は「カスミカメムシ」と改名された。これは改名がうまくいった例だと思う。ところが、多くの「差別用語」を含む昆虫の名前はそのままだ。魚類では大々的に改名が行われたが、ちゃんと定着するのかどうか、今後の動向を見守りたい。
 世の中には「差別用語」の使用を控えようとする動きがあるが、それとは関係なく、ぼく自身は昆虫の名前を単なる《記号》として捉えていたということが今では自覚できている。意味がわからないことば、例えば「ジンサンシバンムシ」とかでもそのまま憶え、その虫の名前を何の違和感もなく使ってきていたからだ。だから、差別用語が含まれるからと言って、特に違和感は無かったし、差別用語とされていることにすら気が付いていないことも多い。自分自身には差別するという意識がないということもあるからだろう。だから、「差別用語」に対する攻撃は、「言葉狩り」とすら感じることが多い。
 最近、外界の情報を受けとるときに使う感覚器官や、感覚した後の脳内情報処理の型を[視覚型/聴覚型/触覚型]に分類するという考え方を知った。これによれば、自分はある程度視覚型だが、主として聴覚型に分類される人間であるように思われる。この分類法によれば、「差別用語」を使うことに対して攻撃する人々は触覚型の人間に分類されるように思われる。要するに、「差別用語」に対する攻撃は《記号》と《象徴》を混同しており、論理的ではないと思うのだ。これに限らず、現代の日本人には触覚型に分類される人間が極めて多くなったように感じられる。触覚型の人間には論理だてて説明しても話が通じないことが多いであろうから、対応が難しい、とぼくには思われる。自然保護団体や動物愛護団体なども触覚型人間の集まりではないかと思われるのだが、本当のところはどうなのだろうか?
 自然保護は、人間の感覚に基づくのではなく、やはり客観的なデータに基づいて、科学的に行われるのが本来の姿だと思う。

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