読書

2009年12月28日 (月)

河野和男著『カブトムシと進化論 博物学の復権』

河野和男著『カブトムシと進化論 博物学の復権』
新思索社
ISBN978-4-7835-0231-9
2,500円+税
2004年11月30日発行
346 pp.

目次
カラープレート
はじめに
1 カブトムシとダーウィン
2 リンネまでの静的自然観
3 流転のラマルク理論
4 至高の銀メダリスト:ウォレス
5 進化論は進化しないのか?—ネオダーウィニズムと「バベルの図書館」
6 主体性の進化論:今西錦司
7 分子進化の中立説:木村資生
8 進化と進歩、偶然と必然—人間の測り間違い
9 ゆっくリズム対断続平衡—グールドの異議申し立て
10 大進化と小進化—前途有望な怪物、ゴールドシュミットの挑戦
11 進化は末広がり、それとも先細り?
12 たくさんある種の定義—奇人ホールデンとマイヤーの種概念
13 地理的隔離と生殖隔離、種分化の仕組み—ドブジャンスキーの見識
14 種の実在性
15 高位分類群の定義:分岐分類と進化分類
16 高位分類群の実在性:系統発生制約
17 似ているということ—相同と相似そして並行進化
18 生物多様性:熱帯と温帯
19 地球上に生物は何種類いるのか?
20 進化にセカンドチャンスはあるのか?—目下、六回目の大絶滅中
21 甲虫類の性的異型—カブトムシの角はどこから来たのか?
22 カブトムシの角はなぜ長い?
あとがきに代えた最終章—人はなぜ虫を集め、進化を考え、それを語るのか?
文献
著者紹介

 『自殺する種子』に続いて河野(かわの)和男氏の著書である。『自殺する種子』は河野氏の「表芸」である育種を中心に語られた著書だったが、その中にもカブトムシやクワガタムシが登場していた。本書は河野氏の「裏芸」であるカブトムシとクワガタムシを通して進化について河野氏の考えが語られた著書である。この本も5年も前に出版されたものだから、読んだのがいささか遅すぎたという感がある。
 育種家である河野氏は、頭の中で考えたことだけでなく、実際のモノを見ているところが強みだと思う。カブトムシやクワガタムシの実物を手にして、見て、触って、肌で感じているところは、頭の中だけで考えている人と違うところだと思う。その河野氏が、種の壁を越えることをうまく説明できないネオダーウィニズムに違和感を持ち、グールドの断続平衡説に惹かれる様子がよくわかる。
カブトムシの角とクワガタムシの大顎の形態は、いくつもの系統で独立に進化したと考えなければ理解が難しく、それをネオダーウィニズムだけで説明するのは難しい。グールドの断続平衡説はこれをうまく説明できる。ある系統群にはある発生のパターンが備わっており、ある種では表現型として現れるが、ある種では現れないと考えると納得し易い説明ができる。
 河野氏の進化に対する考え方は、『自殺する種子』の中にも書かれていたが、進化は先細りにあるのではないか、というものだ。同所的に近縁な種が何種も棲息するのは、あるときに爆発的に種分化が起こり、今残っているのは絶滅を免れた種であると考えた方が、徐々に種分化したと考えるより説得力がある。
 構造主義生物学という言葉を表に出してはいないが、河野氏の考え方は構造主義生物学的だ。ネオダーウィニズムだけで大進化を説明しきれないわけだから、生物進化に構造主義的な考え方は不可欠だと思われる。
 本書には、河野氏を惹き付けたカブトムシとクワガタムシを通して、進化に対する河野氏の考え方が語られている。いわゆる虫屋には必読の書だと思うし、もちろん虫屋でなくても、生物進化に興味がある人なら読んでみたら良いと思う。細かい目で見れば突っ込みどころはあるだろうが、説得力のある本だと思う。また、頭の中で考えるだけでなく、実際のモノを見ることの重要性を教えてくれているように思う。

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2009年12月17日 (木)

河野和男著『“自殺する種子” 遺伝資源は誰のもの?』

河野和男著『“自殺する種子” 遺伝資源は誰のもの?』
新思索社
ISBN4-7835-0225-0
2,700円+税
2001年12月20日発行
296 pp.

目次
I “自殺する種子”の語るもの
II 植物資源利用の歴史
III 生物多様性と農業生産
IV 育種で何ができるのか?
V キャッサバ育種の現場から
VI 不平等性の重構造
VII 開発の再検討
VIII バイオテクノロジー再見
IX 部分と全体、ミクロとマクロ
X 知的所有権、遺伝資源は誰のもの?
文献
あとがき

 養老孟司氏との対談『虫のフリ見て我がフリ直せ』を読んで、河野(かわの)和男氏の著書も読んでみたくなった。2001年の発行なのでもうかなり古くなってしまった本だが、津市津図書館にリクエストしたら買ってもらえた。
 「自殺する種子」とはかなり刺激的な言葉だが、要するに、購入した種子から作物を作ることはできても、できた種を蒔いても芽が出ないように仕組まれた種子のことだ。つまり、「自殺する種子」とは、遺伝資源の権利が北側の大手資本の手に握られているという実態を象徴的に表した言葉だ。
 著者の河野氏は国際機関で熱帯の栄養繁殖性作物であるキャッサバの育種(品種改良)に永年関わって、有力な品種をいくつも作り、それらを普及させたという実績を持っている人だ(ということを本書を読んで知った)。実績を持っているだけに、自信に溢れた言葉が端々に見られる。農業関係の研究者であるぼくにとって、読んでいて耳に痛く、胸に突き刺さる言葉も端々に見られる。
 ぼくはこれまで育種ということにあまり魅力を感じたことはなかったが、本書を読むことによって、育種の面白さと難しさを初めて知ることができた。多くの重要作物の育種は、ある程度行くところまでは行ってしまっているので、これからの人が河野氏と同じような刺激的で面白い経験をできる可能性は皆無に近いだろうから、本書に書かれていることは河野氏の自慢話のように聞こえないこともないが、何のために育種をするか、と考える重要性を説いているところは重要だと思う。
 もう一つ(と言うか最も)重要な点は、現在の重要な作物の起源は“南”にあるのに、それを“北”がその権利を握ってしまっている問題点を指摘していることだと思う。バイオテクノロジーなどで遺伝資源を権利化している“北”に対しては批判的で、「遺伝資源は世界の共有財産であるべきだ」という立場には強く同意できる。本書の題名になっている「自殺する種子」そのものはそれほど大きな問題なのではなく、副題になっている「遺伝資源は誰のものであるか?」ということを、永年育種の現場に居て実績を上げた研究者としての立場から、自信のある言葉で語られていることは重いと思う。

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2009年12月11日 (金)

団まりな著『生物の複雑さを読む 階層性の生物学』

団まりな著『生物の複雑さを読む 階層性の生物学』
平凡社・自然叢書30
ISBN4-582-54630-7
2,330円+税
1996年2月20日発行
226 pp.

目次
第一章 複雑さと階層構造
第二章 生物進化がたどった体制の諸階層
第三章 栄養摂取法の階層構造
第四章 ハプロイド細胞とディプロイド細胞は異なる階層単位である
第五章 有性生殖は階層間を移行する生物固有の能力である
第六章 生殖法の諸階層
第七章 個体発生がたどる体制の諸階層
第八章 物質の階層構造:その基本的性質
長いあとがき
参考文献

 津市津図書館の生物学関係の書棚を物色していて見つけた。著者の「団まりな」という名前はあちこちで見たことが見たことがあったが、直接的な接点がなかったので、どんな人かは知らなかった。
 本書では、生物の複雑さを指標としてとらえ、生物がいかにして進化してきたかを考えている。包含関係あるいは新機能の付加によって生物を階層的にとらえている。本書が書かれたのは1996年であるから、この分野の本としては、もうかなり古い本だと言って良いのだが、ぼく自身はこのような考え方で生物をとらえたことがなかったので、かなり新鮮な気持ちで読むことができた。
 原核細胞、ハプロイド細胞、ディプロイド細胞、上皮体制、間充繊体制、上皮体腔体制、脳・中枢神経系はこの順に複雑化された生物の異なった階層であり、それらの体制の中で現象をとらえることは、生物を理解することの助けとなると思われる。
 著者は、細胞という単位を基本的にとらえており、その構造が重要であると言っているようである。この点では、池田清彦氏が言うところの構造主義生物学と共通するように思われるが、本書には「構造主義」という言葉は一か所も現れていない。池田清彦氏の主張するところの構造主義生物学は、概念だけしかなく、具体的なモノが示されていなかったので、何が言いたいのかよくわからなかったが、本書では、具体的なモノを示して語られているので、概念的な構造主義生物学より遥かに理解し易いと思えた。でも、著者の考え方は構造主義生物学的なのだろうと思う。
 著者は長いあとがきの中で、還元主義だけでは生物を理解することはできない、と書いている。このことは、最近読んだ福岡伸一氏の一連の著書にも書かれているが、分子生物学一辺倒の時代だったと思われる1996年という時期に、既にこのようなことを述べていたとは、かなり勇気が必要だったのではないかと思う。さらに、日本における自然科学研究の体制についても、日本語の重要性を強調したり、過度の業績主義を批判するなど、かなり批判的なことが書かれており、これも勇気が必要なことだったのではないかと思う。
 全体的に見れば本書は、著者である団まりな氏がどのように生物を見てきたか、ということを総括したものであり、かなり理屈っぽい記述が多いものの、生物を理解するのに大きな助けになるのではないかと思う。この分野の現状については知らないが、今でも生物に対する考え方の上で参考になる本だと思う。

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2009年12月 6日 (日)

三重昆虫談話会2009年度例会

 三重昆虫談話会2009年度例会に出席するため、四日市の郊外にある三重県環境学習情報センターに出かけた。毎度のことながら、車で行かなければいけない不便な場所だと思う。
 去年の例会は、去年の7月に亡くなった市橋甫さんを偲ぶ会になったが、今年は例年どおりの講演2題が予定されていた。そのうち一つは、自分も現場に僅かながら関わっていたので、どんな講演になるのか楽しみだった。
 会長の挨拶や会務報告などのあと、以下の2題の講演があった。
1) 三重県にフェモラータオオモモブトハムシSagra femorata (Drury)が定着か(秋田勝己・乙部 宏・中西元男)
2) ダイコクコガネCopris (Copris) ochus (Motschulsky)(稲垣政志)

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 まず最初の講演。演者は秋田勝己氏。今年の7月、松阪市在住の蝶屋の中西元男氏により、フェモラータオオモモブトハムシが発見された。フェモラータオオモモブトハムシは元々日本には分布していない種だが、東南アジア一帯には広く分布していて、現地では比較的普通に見られる種だ。ハムシの仲間としては非常に大型で、金属光沢があり美しい。中西氏の情報を元に、主に秋田・乙部の両氏による精力的な調査が行われ、松阪市のある地域においてフェモラータオオモモブトハムシが定着していることが確実であるという状況証拠が得られた。情報を辿って行くと、発見地近傍にかつて存在していたペットショップで数年前にフェモラータオオモモブトハムシが売られていたということだ。ということで、人為的に移入された個体が何らかの理由により逸脱し、定着してしまったということになる。熱帯地域にしか分布していない種が、冬にはそれなりに寒くなる三重県に定着してしまったとはかなり意外性があると思う。外来種というと何かと目の敵にされるが、このような美麗種だとついつい許してしまいたくなる。主な寄主植物はクズで、1年性の植物には寄生できないようなので、害虫として問題になることはないだろうと思う。

これはぼくが今年8月8日に撮影したフェモラータオオモモブトハムシの写真。情報を提供いただいた乙部氏には感謝。やはり、美しい虫を撮る(採る)と嬉しい。
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 稲垣氏の講演は野外におけるダイコクコガネの特に繁殖を中心とした生態調査の紹介。ダイコクコガネは様々な理由により、全国的に個体数が減少しているが、今でも比較的たくさん棲息している大分県まで足を運んで調査された。ダイコクコガネの餌である牛糞をあらかじめ日数を変えて野外に設置し、ダイコクコガネによって土の中に掘られたトンネルの中の様子を土を掘り返して観察しようという相当手間がかかる調査だ。ダイコクコガネの繁殖生態についてはある程度明らかになっていると思うが、おそらく実験的な条件での観察に基づいて得られた知見によるもので、このような実際の野外で観察しようという試みは、これまでほとんど成功していなかったと思う。土の中のトンネルの中で発見されたダイコクコガネの幼虫の餌になる糞球やその糞球を作っている成虫の様子や、ダイコクコガネに労働寄生するツヤマグソコガネの野外生態写真が紹介された。ツヤマグソコガネは動きが素早く、野外で写真を撮るのは大変難しいとのことだ。
 ツヤマグソコガネの生態の話を聞いて思い出したのが鳥飼否宇の小説『昆虫探偵~シロコパκ氏の華麗なる推理』。クマバチのシロコパκという探偵が活躍して、昆虫の世界に起こった様々な事件の謎を解いていくのだが、この中でツヤマグソコガネの生態が紹介されていた。この小説は、かなり詳しい昆虫の生態に関する知識に基づいて書かれているので、虫屋が読むとかなり面白いのではないかと思う。この小説を紹介してくれたT氏には感謝!

 講演が終わった後は、全員が順番に自己紹介。昆虫を趣味とする人の高齢化がいわれて久しいが、小中学生が3名もいてビックリ。本当に若い虫屋は絶滅危惧種だと言われているので、我々年長者が大切に育てていかなければいけないと思う。

 例会の後は懇親会も予定されていたが、帰りが遅くなるとキツいので失礼して帰ってきた。

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2009年12月 5日 (土)

学研の『科学』と『学習』が休刊する

 学研の『科学』と『学習』が休刊になることがあちこちで話題に上がっている。
 ぼくも小学生の頃、『科学』と『学習』にはお世話になったが、高学年になる頃には『学習』には別れを告げ、『科学』だけになった。だから「『科学』と『学習』」か「『学習』と『科学』」かと言われれば、断然「『科学』と『学習』」だ。
 いろいろな実験のまねごとができる付録の付いた『科学』は面白かった。今のうちの息子たちのやることを見ていても、自分の手を動かしてやることと言えば、パソコンやゲーム機のキーを押すぐらいのことなので、いろいろなことを「実験」した自分と比べると、何とも寂しいものと思えるのだが、物質的に豊かになりすぎた弊害がこういうところに出てきているのだと思う。
 科学の一端を担っているとぼくが堅く信じている昆虫採集という趣味は、もう何十年も前に廃れてしまったが(50歳にもなるぼくが、中学生だった時以来、未だに昆虫同好会の中では「若手」を続けているというのはマトモとは思えない)、科学一般についても「科学を楽しむこと」はコドモの心を持ち続けているオトナの趣味になっているような気がする。アマチュア無線にしても然りである。

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2009年11月 4日 (水)

三中信宏著『分類思考の世界 なぜヒトは万物を「種」に分けるのか』

三中信宏著『分類思考の世界 なぜヒトは万物を「種」に分けるのか』
講談社現代新書2014
ISBN978-4-06-288014-5
800円+税
2009年9月20日発行
328 pp.

目次
プロローグ 生まれしものは滅びゆく(2006年オアハカ、メキシコ)
第1章 「種」に交わればキリがない
第2章 「種」よ、人の望みの喜びよ
第3章 老狐幽霊非怪物、清風名月是真怪
第4章 真なるものはつねに秘匿されている
第5章 いたるところにリヴァイアサンあり
第6章 プリンキピア・タクソノミカ
インテルメッツォ 実在是表象、表象是実在(2007年ニューオーリンズ、アメリカ)
第7章 一度目は喜劇、二度目は茶番
第8章 つながるつながるつながるなかで
第9章 ナボコフの“ブルース”
第10章 目覚めよ、すべての花よ
第11章 時空ワームの断片として
第12章 「種」よ、安らかに眠りたまえ
エピローグ 滅びしものはよみがえる(2008年トゥクマン、アルゼンチン)
あとがき「分類のための弁明」に代えて
私的ガイド付き文献リスト(現世で迷わないために)
索引

 著者である三中さんの日録を見て本書が出る事を知った。リクエストしなくても図書館に入っていたので借りてきて読んだ。
 三中さんと言えば系統学である。前著『系統樹思考の世界−すべてはツリーとともに』(2006)も手にした記憶はあるが、読後感を書き残していないので、最後まで読み通したかどうかはっきりした記憶がない。
 三中さんは以前から「種は実在しない」という主張をされているので、本書もそれに沿った考えが述べられているのは容易に予想がついた。
 本書では、ヒトがどのようにモノを分類してきたかという歴史が整理されている。本書をひととおり読めば、歴史をほぼ理解する事ができるのではないかと思う。生物学者は生物を分類し、区別して名前をつけてきたが、分類や「種」に関する問題は未だに解決しているわけではない。
 「種」に関する問題が未解決だとは言え、我々「種」の利用者は、「種」がないと不便で仕方がない。三中さんは「種」を利用する立場の人ではないので、「種」とは何か、という問題について考え、様々に論考することもできるだろうが、「種」の利用者であるぼくにとっては、便宜的ではあれ、やはり、生物を分類し、記載して「種」を決めてもらわないと困ると思う。
 三中さんが言いたい事はわからないわけではないが、だからと言ってすんなり納得できるものではありませんよ、というのが感想だ。三中さんは何か月かに一度ぐらいこのブログを読みに来ているようなので、ちょっと書きづらかったなぁ。

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2009年11月 1日 (日)

養老孟司・河野和男著『虫のフリ見て我がフリ直せ』

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養老孟司・河野和男著『虫のフリ見て我がフリ直せ』
明石書店
ISBN978-4-7503-3045-7
1,800円+税
2009年9月25日発行
228 pp.

目次
第I部 虫の目で世界を眺めて
 人はなせ虫を集めるのか
 「種」や「属」は存在するのか
 進化論者たち
 発生遺伝子と遺伝率
 種の分布と分化の関係性
  コラム
   個体発生と系統発生
    −クワガタムシの大顎のパターンによる属の記述(河野)
   高位分類群とホックス遺伝子(河野)
   内部選択説(養老)
   バベルの図書館(河野)
   進化は末広がりではなく先細り(河野)
   ネオダーウィニズム(河野)
   工業暗化(河野)
第II部 生き物たちのつどう社会
 人為的な生態系
 文化と地形
 「お国のため」と「愛国心」
 日本人と森
 世界と日本−大気、海洋資源、森林
 進化と進歩
 生物は遺伝子の「乗り物」なのか?
 生物学は情報学だ
  コラム
   愛国心か「お国のため」か(養老)
   ダーウィンの図(河野)
   似ているということの異端児−並行進化(河野)
対談のあとで(河野)

 解剖学者の養老孟司氏と熱帯作物であるキャッサバの育種家の河野(かわの)和男氏との対談である。両者とも、昆虫の収集家でありアマチュアの昆虫研究者としてよく知られている。
 「対談のあとで」で河野氏が「この対談は好みと思考パターンが初めから一致している仲良し子供会的な話し合いではなかったのは当然として、またもう一方の極端である思い込みと見解の表示様式に初めから全く共通点のないすれ違いの意見交換でももちろんなく、知的緊張感がバランスよく保たれた議論の時間だったと思う。」と書いているように、これまでの養老氏を交えた虫屋どうしの対談(例えば、「虫屋」である池田清彦氏や奥本大三郎氏などとの)とはひと味もふた味も違うものだったように思えた。これまでの養老氏による虫屋との対談は、学問的なものというよりも、放談に近いものだったが、本書では、生物進化という現象に対する考え方についてかなり真面目に議論していると感じられた。
 ぼくは学生時代に出現したネオダーウィニズムの洗礼を受けないわけにいかなかったが、その後ずっと生物を見てきていると、ネオダーウィニズムだけでは大進化を説明できないということが徐々にわかっていた。育種家として仕事をしてきた河野氏は、生物進化は先細りである、という考え方を肌で感じてきているようだが、この対談を読んでいると、確かにそのように思えてくる。
 原理主義的なネオダーウィニストが読めば、滅茶苦茶けなす対象になるかも知れないが、目の敵にせずに読んでみると良いと思う。
 面白い本だったが、ちょっと残念なのは、写真の印刷が悪いこと。本文と同じ紙にモノクロで印刷されているので仕方がないのかも知れないが、もうちょっと鮮明な写真を載せて欲しかった、というのが本音だ。できればクワガタムシの写真だけでも、アート紙にカラーで印刷して欲しかった。
 それともう一つ。『虫のフリ見て我がフリ直せ』という表題は編集者が付けたものだろうと思うが、本書での対談の内容から全くひねりだせないような表題だと思う。だからと言って、どんな表題が良いかと言われても困るが、もう少し内容に即した表題の方が親切だと思う。『虫のフリ見て我がフリ直せ』の方が本がよく売れるかも知れないが。

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福岡伸一著『世界は分けてもわからない』

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』
講談社現代新書 2000
ISBN978-4-4-06-288000-8
780円+税
2009年7月20日発行
278 pp.

目次
プロローグ パドヴァ、2002年6月
第1章 ランゲルハンス島、1869年2月
第2章 ヴェネツィア、2002年6月
第3章 相模原、2008年6月
第4章 ES細胞とガン細胞
第5章 トランス・プランテーション
第6章 細胞のなかの墓場
第7章 脳のなかの古い水路
第8章 ニューヨーク州イサカ、1980年1月
第9章 細胞の指紋を求めて
第10章 スペクターの神業
第11章 天空の城に建築学のルールはいらない
第12章 治すすべのない病
エピローグ かすみゆく星座

 福岡氏の前著『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』にも共通するが、生命をどこまで還元的に解析しても理解することは不可能である、という基本的な考えが感じられた。いくら細かいところが見えるようになっても、視野が狭くなりるばかりで、全体像を理解することは不可能である、という考え方も感じられる。
 ニューヨーク州イサカという町にあるコーネル大学で起こった「スペクター事件」(この本を読むまで知らなかった)は、ガン細胞の中で起こっている生化学反応を解明する研究の過程で起こったマーク・スペクターという人物によるデータ捏造事件だが、その顛末がドラマチックに記述され、途中で読むのを止められなくなってしまった。あらためて福岡氏の文章のうまさを感じさせられる。
 生命現象は物質やエネルギーが常に動いている中での平衡状態にあり、ちょとした操作を加えても、しなやかに次の平衡状態に移るので、人間が頭の中で考えたようには事が進むことを確認できない。
 福岡氏の研究室では、トリプトファンの代謝産物である神経毒のキノリン酸を分解するキノリン酸ホスホリボトランスフェラーゼの遺伝子を解明し、その遺伝子の働きを人為的に停止させたノックアウトマウスを作成し、現在は研究の途中であるとのことである。遺伝子の働きを止めたマウスは死んでしまうのか、別の動的平衡状態に移り、何事もなく過ぎてしまうのか。その結果は、福岡氏が繰り返し書いている「動的平衡」の考え方が妥当なのかどうかを示してくれるはずである。
 『世界は分けてもわからない』という表題は単純な還元主義に対して疑問を投げかけるものであり、これはぼくの考え方とも矛盾しない。

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2009年10月25日 (日)

福岡伸一著『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』

福岡伸一著『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』
木楽舎
ISBN978-4-8634-012-4
1524円+税
2009年2月25日発行
254 pp.

目次
「青い薔薇」−はしがきにかえて
プロローグ−生命現象とは何か
第1章 脳にかけられた「バイアス」−人はなぜ「錯誤」するか
第2章 汝とは「汝の食べた物」である−「消化」とは情報の解体
第3章 ダイエットの科学−分子生物学が示す「太らない食べ方」
第4章 その食品を食べますか?−部分しか見ない者たちの危険
第5章 生命は時計仕掛けか?−ES細胞の不思議
第6章 ヒトと病原体の戦い−イタチごっこは終わらない
第7章 ミトコンドリア・ミステリー−母系だけで継承されるエネルギー産出の源
第8章 生命は分子の「淀み」−シェーンハイマーは何を示唆したか
あとがき

 ワトソンとクリックによるDNAの構造解明以降、「生物は遺伝子、分子へと還元すれば理解できる」という考え方が主流となっている。本書は様々な視点から、そういう流れに対して、「はたしてそうだろうか」と疑問を投げかけている。
 本書全体を通して、生命は物質の流れのなかの動的な平衡状態として理解すべきだ、ということが貫かれている。
 ぼく自身、生命現象を還元的に理解することに対して常々疑問を持っていたので、本書はその多くの疑問に答えてくれたように思う。
 池田清彦氏によるところの、システムとして生命現象を捉える観点と通じるところがあるように感じられた。
 福岡伸一氏の著書は何冊か読んだが、いずれも落ち着いた語り口で、大変読み易いと思う。本書も、生物学を専門にしていない人にとっても読み易いものだと思う。

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2009年8月14日 (金)

池田清彦著『そこは自分で考えてくれ』

池田清彦著『そこは自分で考えてくれ』
角川学芸出版
ISBN978-4-04-621399-0
1400円+税
2009年3月15日発行

目次
法的規制とマイノリティーの権利
マイナーな普遍
民主主義のセキュリティー
世界最大の難問−人口問題編
世界最大の難問−エネルギー編
クレーマーは不治の病なのか
コニュニケーション不全社会
京都議定書のカラクリ
食と性の分かち合い
抹殺されるマイノリティー
デタラメな法律をつくること
虫を採りにラオスへ行く
アモク・シンドロームの行方
温暖化より危ないこと
暴走する正義
安全な場所に住む
国家は何のためにあるのか
分類とシステム
あとがき

 本書は、角川学芸WEBマガジン(2007年7月から2008年12月)に掲載された「ものの見方について−イデオロギーのはざまで」を改題し、単行本化されたものである。

 また池田清彦である。学生時代に池田氏の「構造主義生物学とは何か」を読んで、中身を皆目理解できず、ずっと池田氏の著書を避けていたが、構造主義生物学とは直接関係のない氏の本を読むと面白く、ついついはまってしまったというところである。
 「そこは自分で考えてくれ」とは随分いいかげんで無責任なタイトルだが、要は、偏向した(池田氏によれば、日本の大新聞やマスコミはほとんどマジョリティーのみに与し、マイノリティを無視あるいは敵視しているというように偏向している)メディアの情報しか得られない一般国民に対して、情報を鵜呑みにしないで確かな情報をもとに自分で考えないとえらいことになりますよ、と言っているということだ。
 めんどうな問題に出くわした時、ついつい自分が理解できるところまでは理解するが、そこで思考停止に陥ってしまうことはしばしばありがちである。本書(に限らず、生物学とは直接関係のない池田氏の著書のほとんどもそうだ)は、そこに警鐘を鳴らしてくれるような本である。
 池田氏の考えの根底にあるのは、自由と平等の考え方である。今の世の中が、いかに不平等で問題の多いものであるかを、本書は教えてくれる。もっとも、これはぼく自身があまりに世の中の情勢の把握を怠っているか、ということにも関係しているが。無駄な法律が次々とつくられて、日に日に窮屈に感じているぼくにとって(本書に従えば、自分はマイノリティーに属する面が多いのだと思う)、本書はその理由を教えてくれているという点で、読んでいて気持ちがよくなる。
 もっとも、ぼく自身の人生ももう半ばを過ぎていることは間違いないと思われるので、このような本は、これからの社会を動かす若い人に読んで欲しい。

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