ひと

2012年3月11日 (日)

京都へ(2012年3月10日)

 ボクの学位論文の主査をしていただいた藤崎憲治先生が定年退職されるので、その最終講義と祝賀会に出席するために京都に行った。地下鉄の蹴上駅から南禅寺を抜けて哲学の道を歩き、銀閣寺の門前を徘徊し、銀閣寺道の「ますたに」でラーメンを食べ、学生時代に住んでいたアパートを見てから最終講義の会場に向かった。最終講義のあとは、大学の構内を抜け、有名な「折田先生像」や日本最古の学生寮である「吉田寮」を見て祝賀会の会場の「楽友会館」に向かった。

20120310blog01地下鉄の蹴上駅

20120310blog02南禅寺

20120310blog03哲学の道

20120310blog04哲学の道沿いにはゲンジボタルやキマラダルリツバメがまだ棲息しているらしい

20120310blog05銀閣寺の門前

20120310blog06ラーメンの「ますたに」

20120310blog07「ますたに」のラーメン
スープまで完食

20120310blog08学生時代に住んでいた「西町アカセ荘」
かなり荒れていて、誰も住んでいない感じだった

20120310blog09今出川通の志賀越道の分岐にある子安観音

20120310blog10京大農学部の正門前

20120310blog11合格発表の掲示板
前の日が合格発表だったらしい

20120310blog12最終講義の案内
「師としてのカメムシ」

20120310blog13最終講義を終えた藤崎先生

20120310blog14今出川通に見つけた立て看板
ボクが学生時代に所属していた合唱団のものである

20120310blog15入学試験の時期になると京大吉田南キャンパスに出現する「折田先生像」
初めて実物を見た

20120310blog16京大吉田寮
映画「鴨川ホルモー」でもロケに使われた

20120310blog17京都大学楽友会館
祝賀会の会場である

20120310blog18花束を受け取った藤崎先生

20120310blog19藤崎先生の教え子たち

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2012年3月 4日 (日)

三重昆虫談話会2012年総会・日本鱗翅学会東海支部例会・大川親雄名誉会長を偲ぶ会(2012年3月4日)

 今日は三重昆虫談話会総会兼日本鱗翅学会東海支部例会があったので三重県教育文化会館まで出かけた。今年は、去年の秋に亡くなられた三重昆虫談話会の名誉会長(会の創立以来50年間も会長を務められていた)大川親雄さんを偲ぶ会も兼ねられた。

議事:会務報告など
講演:三重県のフクイアナバチとクズハキリバチ(西田悦造)
   三重県北部のチョウの現状(河本実)
大川親雄名誉会長を偲ぶ会:
  1.大川先生縁の虫(秋田勝己)
  2.先生の思い出話(坂部元宏・石田昇三・西田律夫)

 議事では、会の役員の交代が承認され、新会長には糞虫研究家の稲垣政志さんが選ばれた。副会長には生川展行さんと川北均さん、幹事に中村泰さん。
 講演では西田悦造によるハチの話。昆虫同好会のハチ屋さんは少ないので、なかなか聞けない話であったと思う。河本さんのチョウの変遷の話も、地道な調査の賜物である。
 大川親雄名誉会長を偲ぶ会での講演では、3人の方からそれぞれ昔の話を聞くことができたが、一流のプロの研究者である西田律夫さんが大川先生の教えを受けたバリバリの昆虫少年であったことの話を聞くことができたのは、なかなか貴重な体験ではなかったかと思う。
20120304blog1亡くなられた当日の大川先生
20120304blog2大川先生に献名されたウガタオサムシ

 この会のこととは全然関係のない話だが、今朝ぐらいから胃の調子がおかしい。帰りがけに薬局に寄って胃腸薬を買ってきた。

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2011年5月22日 (日)

岡田正哉さんの訃報(2011年5月22日)

20110522blog1
 今朝のこと、このブログへのヘテロさんのコメントで岡田正哉さんが5月17日に亡くなったことを知った。ネットで検索すると、既に何人かの方がブログで思いを綴られている。
 ぼくと岡田さんは決して深いつながりではなかったが、細く長くおつきあいさせていただいていたと思っている。あまりに細かったせいで、ぼくと岡田さんとの関係を知る人がなかったのか、亡くなったことをすぐに知らせてくれる人もなく、お葬式にも行けなかった。不徳の致すところである。(ヘテロさんによれば、名古屋昆虫同好会会長からのメールが発信されていたとのことだが、何故かぼくのところにはメールは届かなかった。)岡田さんがお住まいだった名古屋には、ここ津市から無理無く行ける距離なので、最後のお別れができなかったことは大変残念である。
 最後にお会いしたのは、豊田市の昆虫調査についての会議の席だったと思うので、2009年3月頃のことである。そのときには、パーキンソン病を患っておられるという話を聞いた。
 お葬式にも行けなかったので、せめてこのブログで岡田さんへの思い出を書いて、自分の心の整理としたいと思う。
 最初の出会いのきっかけは思い出せないのだが、最初の出会いのことは今でも思い出すことができる。時は1978年3月だったはずである。ちょうど大学への進学が決まり、それまで半年ちょっとの間封印してきた昆虫採集に復帰することになり、昆虫採集道具を揃えようと思って出かけたのが、当時名古屋の栄あたりのビルの一室にあった「昆技研昆虫資料室」だったはずである。そこでお会いしたのが岡田正哉さんと臼田明正さんだった。臼田明正さんは既に故人になられている。
 そこでは、昆虫採集道具を揃えるのと同時に、ぼくが親から大学進学祝いとして買ってもらえるはずのカメラの話を岡田さんからうかがった。そのとき岡田さんから勧められたのは、オリンパスのOMシリーズだった。そして、リバーサルフィルムで写真を撮ることを教えていただいた。さらに、ナナフシとカマキリを始めとする、直翅系昆虫への熱い思いを語っていただいた。
 その直後ぼくは、親から買ってもらったオリンパスOM-2と50mmのマクロレンズを持って京都へ旅立った。その当時ぼくは、蝶ばかり追いかけていたのだが、岡田さんのことが頭にあり、とくにナナフシには気をつけていた。その年の初秋のこと、京都府の北部、滋賀県と福井県の県境に近い芦生演習林に行ったときにトビナナフシの仲間を見つけた。これを採集し、その後愛知県に帰省したときに岡田さんのところへ持って行ったところ、まだ記載されていないシラキトビナナフシだということだった。
 その後ぼくは、京都から広島県福山市、岩手県盛岡市、福岡県久留米市を経て、1997年4月には憧れの地、沖縄県の石垣島に転勤したが、それまでの間にも、帰省するたびに岡田さんのもとを訪ねた。その間に岡田さんの居場所も都心のビルの一室から、昭和区駒場町、千種区春里町、瑞穂区関取町へと移り、「名古屋昆虫館」と名前も変わった。
 石垣島で住んでいたアパートでは、灯火でカマキリがたくさん採れた。それを岡田さんのところへ送ったら、スジイリコカマキリという未記載種であるとのことであった。これまで未知であったスジイリコカマキリの緑色型も採れたが、これは岡田さんによって「月刊むし」に発表された(岡田正哉,石垣島産スジイリコカマキリの緑色個体,月刊むし (329): 16-17,1998)。
 岡田さんによれば、八重山ではもう一種の未記載のコカマキリが知られており、それはヤサガタコカマキリと呼ばれていた。少なくとも国内では、それまで石垣島で雄が1頭、与那国島で雄が3頭採集されているだけの珍しいものだった。自宅アパートに飛来するコカマキリは、すべてがスジイリコカマキリばかりで、ヤサガタコカマキリは幻かと思われていたのだが、それがついに2001年7月9日に採集された。採集したのは、毎日ように灯火を見回っていたぼくではなくて、まだ4歳の幼稚園児だった三男坊だった(河野勝行・河野陽,石垣島でヤサガタコカマキリを採集,月刊むし (370): 11-12,2001)。この標本も岡田さんのところへ送った。
 時は前後するが、1990年頃のことだったと思う。「名古屋昆虫館」が大きく発展するという話があったが、バブルの崩壊で寄付が集まらなくなり頓挫したという話を聞いている。「名古屋昆虫館」が昭和区駒場町から千種区春里町へ移転したのも、この直後の頃だったと思う。岡田さんにとっては辛かった時期ではないかと想像する。
 さらに前後するが、岡田さんはエダナナフシ類やアマミナナフシ類を詳細に調べられていて、「ナナフシのすべて」(写真右)(トンボ出版,1999)に詳しく解説されているが、学術的な記載論文を書くこと拒否されていた。岡田さんの考え方では、記載論文を書くのはプロの分類学者の仕事で、アマチュアである自分が記載する立場ではない、というところだった。これに関してぼくは、記載するのはプロであろうとアマチュアであろうと関係なく、その分類群にもっとも精通している人の仕事だと思っているので、岡田さんに記載論文を書いていただくことを強く希望していた。しかし、岡田さんの考え方はなかなか変わらなかった。
 これに関して動きがあったのは2008年3月のことであった。日本直翅類学会の学会誌"Tettigonia" No. 9には、市川明彦さんと岡田さんの連名でシラキトビナナフシの記載論文が掲載されていた。ぼくがシラキトビナナフシの存在を知ってから30年も経ってからのことなので、それなりの感慨があった。次はエダナナフシ類やアマミナナフシ類だと思っていたので、岡田さんには期待していたのだが、その頃には既に病魔に冒されていて、その実現は難しいと思わないわけにはいかなかった。そこに今回の訃報である。記載論文は一番よく知っている人が書くべきだと思うので、もう日本のエダナナフシ類やアマミナナフシ類は記載されずに終わってしまうかも知れない。
 岡田さんは1943年生まれとのことなので、まだ68歳ぐらいである。近年の平均寿命の伸びからすれば、ちょっと早すぎる気がする。傍から見ていても積み残しの仕事が多いように思われるので、ご本人にとってみれば無念のことがさぞ多かったのではないかと思う。それはともかく、まずはご冥福をお祈りしたい。

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2011年5月19日 (木)

カブトムシの幼虫とノビル(2011年5月19日)

 今日は恒例の野外調査。最初の調査地点は去年カブトムシの蛹を採集した場所。何故か外から見えるところにカブトムシの幼虫がいた。
20110519blog1 この近くの雑草地にはノビルが生えている。晩ご飯のときに食べようと思って少し採集した。
20110519blog2
 次の調査地に行くと、何台もの車が停まっていた。畑の主のTさんのほかに、1組の夫婦と2人の幼児、さらに2人の中学生がいた。やがて、Tさんの奥さんも登場。
 話を聞くと、2人の中学生は職場体験とのこと。夫婦と2人の幼児は茨城県北部から来たという有機農家さん。原発事故を機会に茨城県を離れて別の場所で就農しようということで、Tさんのところを訪ねてきたとのこと。ご本人から話を聞くと茨城県で就農して7年とのことだが、7年ぐらいといえば、やっと軌道に乗り始めた頃ではないかと思う。また違う場所で1から始めるとなると、困難も多いことだろうと思う。原発事故の影響は実に裾野が広いと思わされた。

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2011年1月 1日 (土)

石垣島の「民宿なぎさ荘」

 今日は実家への日帰りの帰省をしたので、年賀状を見たのは夜になって帰宅してからだ。その中の一枚の年賀状が石垣島の「民宿なぎさ荘」からのものだった。それを読むと、民宿を閉じることにしたとのこと。大変残念である。
 石垣島に住んでいたとき、自分が泊ったわけではなかったが、昆虫採集に来る虫屋さんがよく「民宿なぎさ荘」に泊ったので、ぼくは何度も「民宿なぎさ荘」に顔を出し、やがて懇意にしていただけるようになった。
 最初に泊ったのは、石垣島を離れるとき、公務員宿舎を引き払って家族を先に送り出して、4月1日に辞令をもらって石垣島を離れるまでである。石垣島を離れてから、2006年の春に出張で石垣島に行ったときにはもちろん「民宿なぎさ荘」にお世話になったし、2007年夏に家族旅行で石垣島に行ったときにもお世話になった。
 「民宿なぎさ荘」の歴史についてはこれまで何も知らなかったが、年賀状によれば1972年の沖縄の祖国復帰の年から営業を続けていたとのこと。39年の歴史を持っていたということである。
 これで困ってしまったのは、石垣島に行った時に何処にに泊ったら良いのか、ということである。石垣島にはホテルや民宿がたくさんあるので、選択肢には困らないはずだが、豪華なホテルでは落ち着かないし、ビジネスホテルでは味気ないし、「民宿なぎさ荘」のようなくつろげる宿を見つけようと思うとなかなか難しい。
 「民宿なぎさ荘」の営業を終えるとは言え、女将さんはまだお元気なはずなので、石垣島に行くことがあれば、必ず顔を出したいと思っている。問題は、何時石垣島に行けるか、ということだ。

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2010年9月27日 (月)

小長谷有紀・山極寿一編『日高敏隆の口説き文句』

小長谷有紀・山極寿一編『日高敏隆の口説き文句』

岩波書店
ISBN978-4-00-024504-3
2,000円+税
2010年7月28日発行
194 pp.

目次
まえがき対談 小長谷有紀×山極寿一
I
 フランスにおける日高行動学 岸田 秀
 マウンティング 内田春菊
 どうせ動物行動学で全部説明されている 山下洋輔
 氏の語学力はつとに有名である 羽田節子
 「拝啓リュリ様」 安野光雅
 日高敏隆の櫛と鏡 赤瀬川原平
II
 映画『もんしろちょう』の日高敏隆 羽田澄子
 師に学ぶ 保賀昭雄
 人間という生き物を知る 桃木暁子
 昆虫写真家の誕生 栗林 慧
 雑誌「アニマ」の時代 澤近十九一
 「未来可能性」という口説き 嘉田由紀子
III
 日高先生のお洒落 今江祥智
 「文化生命科学者」との出会いから 堀場雅夫
 チョウはどこまでカミか 中西 進
 きみは今,椿なの.僕は今,人間だよ. 梶田真章
 人類はどこへ行くのか 松井孝典
 「生のかたち」への視点 原 ひろ子
IV
 すがすがしい口説き方—『動物と人間の世界認識—イリュージョンなしに世界は見えない』読み直し 坂田 明
 動物行動学者の喜び—『チョウはなぜ飛ぶか』読み直し 今森光彦
 美しい批判—『エソロジーはどういう学問か』読み直し 亀崎直樹
 ネコの世界でももてたかな—『ネコたちをめぐる世界』読み直し 山岡亮平
 日高さんに学ぶ—『ぼくにとっての学校—教育という幻想』読み直し 尾池和夫
 感覚で学べ—『大学は何をするところか』読み直し 養老孟司
 地球環境学という口説き—『子どもたちに語るこれからの地球』読み直し 湯本貴和
 日高さんの自由さと人間論—『人間は遺伝か環境か? 遺伝的プログラム論』読み直し 黒田末寿
 日高先生のかたり—『プログラムとしての老い』読み直し 松林公蔵
あとがき対談 山極寿一×小長谷有紀

 去年の11月に亡くなった日高敏隆先生ご本人や日高敏隆先生の著書について、様々な人が語っている。
 ぼくは中学生だった頃、『昆虫という世界』(朝日新聞社)を読んで日高先生に魅せられたひとりだが、本書に文章を寄せている皆さんも、様々な形で日高先生に魅せられた人たちだと思う。ひとそれぞれに日高先生との接し方が違い、ぼくと同じように感じた人がいる一方で、ぼくとは全く違った繋がり方をしている人があったりと、ぼくの知らない日高先生を知ることができて面白い。
 ぼくが日高先生のお顔を初めて拝見したのは、確か学部の学生だった頃だったが、ちょうどその頃、日高先生が中心になって設立された日本動物行動学会の最初の大会が開催され、ぼく自身も大学院への進学が決まった頃で、その後学部は違ったものの、日高先生のお顔を拝見する機会が多くなった。日高先生はお洒落で格好良く、先生の回りには必ず何人かの女性がいたことは強く印象づけられた。この点については、本書でも複数の方から語られている。
 日高先生の学者としての顔ではなく、生い立ちについて知ったのは『ぼくにとっての学校—教育という幻想』を読んだときである。この本については、ぼくが学位を取って学位記を手渡していただいたときの京都大学総長の尾池和夫先生が語っている。尾池和夫先生が理学部の教授になられたときの学部長が日高先生であり、学部長として、またその後の滋賀県立大学学長、総合地球環境学研究所所長としても優秀な手腕を発揮されたことが語られている。
 ぼくが直接日高先生とじっくりお話することができたのは、ぼくが石垣島に住んでいたときのことで、ちょうどその頃に日高先生は『動物と人間の世界認識—イリュージョンなしに世界は見えない』を出版されており、「イリュージョン」をキーワードにいろいろお話をうかがうことができた。この本については坂田明さんが語っているのだが、生物学とはあまり縁がなさそうな坂田さんが一応生物学を学んだぼく以上に深く「イリュージョン」を理解されていると思われるのは、専門外の人を惹き付ける魅力のある日高先生の文章の力であるように思われる。
 それにしても本書を読むと、日高敏隆という人間が類い稀なる才能を持った人物であったことが理解される。これほど自由な発想ができる人間が、少なくとも今の日本にはいないように思われるし、今後もなかなか出てこないのではないかと思う。第二の日高敏隆が現れることを心から希望する。
 本書は日高ファンなら文句無しに読むべき本であると思うし(なんていう事を書かなくても、読んでいるだろうが)、そうでない人が読んでも面白いだろうと思う。

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2010年6月25日 (金)

直翅目以外の直翅類大図鑑の計画と浜口哲一さんの訃報

 昨日「ばったりぎす」(日本直翅類学会連絡誌)145号が届いた。最近はハサミムシとも疎遠になってしまっているが、パラパラとめくって中を読んだ。日本直翅類学会のメンバーが中心になって、2006年には『バッタ・コオロギ・キリギリス大図鑑』が発行されたが、今度はバッタ目以外の直翅類系昆虫の図鑑を発行しようというプロジェクトが始まるようである。ハサミムシ目以外はあまりわからないので(カマキリ類は種数が少ないのでそれなりにわかるけど)、ハサミムシ目のリストには目を通した。ざっと見ただけだったが、リストから漏れている種に気が付いた。
Prolabisca infernalis (Burr, 1913), Pygidicranidae
和名なし,ムカシハサミムシ科
20100625blog1_2
 ぼくは西表島で幼虫を、沖縄島北部で成虫を採集したことがある。西表島で幼虫を採集したときは、ハサミムシ科(Anisolabididae)かと思ったし、飼育して成虫が出てきたときもやはりハサミムシ科だと思った。種名がわからず、いろいろ探しているうちに、ハサミムシの分類の専門家の西川勝さんが台湾で採集したという論文を見つけ、それに付けられている図を見て、この種に間違いないと思った。科は思いもよらぬムカシハサミムシ科であった。ここに写真で示したように、短翅型(左)と長翅型(右)がある。
 というわけで、さっそくプロジェクトの仕掛人でリストの作成者であるIさんに「リストから落ちてますよ」という電子メールを送ることにした。


 「ばったりぎす」には一枚刷りの別紙が入っており、本誌の訂正などが書かれていたが、最後に書かれていた訃報のところを見て驚いた。永年、平塚市博物館におられた浜口哲一さんが亡くなられたとのことだ。直接お会いしたことはなかったが、ぼくが石垣島に住んでいた2002年頃に、何かのこと(それが何だったか思い出せないのだが)で電子メールをやりとりすることがあり、それ以来、ことあるたびに個人的なメールマガジンをお送りいただくようになり、それは2004年からは「平塚から」と題されて毎月1回定期的に送られてくるようになっていた。そのメールマガジンには多くの本の紹介があり、参考になるものも多かった。今年の4月まではそのメールマガジンを受け取っていたが、調べてみたら5月のものは受け取っていなかった。ご病気で5月3日に亡くなられたそうである。一度お会いしてお話をしてみたいと思っていた人であるが、ついにその機会は無くなってしまった。非常に残念である。

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2009年11月23日 (月)

日高敏隆先生の訃報

 京都大学名誉教授の日高敏隆先生の訃報が届いた。11月14日に亡くなられていたそうである。10月に三重大学で開催された日本昆虫学会第69回大会にもおいでになると聞いていたのだが、実際にはおいでにならなかったので、ご病気だろうと想像はしていた。
 ぼくは子供の頃から虫が好きで、遊びと言えば「虫採り」だった。そんな子供が中学生の頃だったか、日高先生が書かれた「昆虫という世界」(朝日新聞社)という本を読み、本当の昆虫の面白さを知り、大学でも昆虫を学びたいと考えるようになった。
 もっとも、日高先生がおられた京都大学理学部に入学できるだけの学力がなく、農学部に進学したが、やはり日高先生のことは意識していた。
 ぼくは日高先生の弟子ではないので、直接お話しする機会は少なかったが、石垣島で勤務していたとき、日高先生が石垣島に来られ、先生を含めて4人という少人数でテーブルを囲んでお話する機会がたまたまあった。その頃日高先生は『動物と人間の世界認識—イリュージョンなしに世界は見えない 』(筑摩書房)という本を書かれて、「絶対的なものは存在しないのだ」ということを主張されていたようなので、そのときの話もその本に書かれたことが話題の中心になった。イリュージョンという言葉も、そのとき初めて意識した。
 日高先生はダンディで、先生の周りにはいつもすてきな女性がいたような気がする。いつも若々しいと思っていたが、病魔には勝てなかったということだ。ご冥福をお祈りしたい。合掌。

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