自然科学一般

2015年1月31日 (土)

近況(2015年1月31日)

 今日で1月も最後なので、今月分の記事を1つぐらい書かなければいけないと思っていたところ、このブログの読者の方にご心配をおかけしてしまったようで、「大丈夫ですか?」というお手紙をいただいてしまった。申し訳ありません。
 体調が悪いのは、「うつ」に処方されていた薬の後遺症のためなのですが、もう少し経ったら一度このことをじっくり書かないといけないと思っています。簡単に書いてしまえば、「うつ」に処方されていた薬を飲んだことで、精神的にも身体的にも余計に悪くなっていた、ということです。
 今は「うつ」に処方されていた薬を止めてから2年以上経ち、漢方薬の力を借りながら、徐々にではありますが、確実に良い方向に向かっています。
 そのような状況でまだ体調が良くなく、フィールドにもほとんど出ていないため、このブログのネタが無いというのも一つの事実ではあります。
 話は変わりますが、今月から2年間の予定で学会誌の編集のお手伝いをしています。編集委員長から割り当てられた論文の原稿に目を通し、査読者を決めて査読者に原稿を回し、査読者のコメントをもとに編集者としての判断を出して、それを編集委員長に返す、という仕事です。
 この1か月の間に、前任の編集者から引き継いだ論文を2編受理し、新規に割り当てられた論文を2編却下し、2編を査読者に回しました。この学会誌への投稿の半分ぐらいは外国人からのものだのですが、インパクトファクターがそれほど高くないために嘗められているのか、外国人からの投稿はレベルが低いのが多い感じがしています。あまりにひどいのは、査読者に回さずに編集者の段階で却下することになります。インパクトファクターはそれほど高くなくても、質の良い論文を世に出したいと思っています。そのためには、査読が多少は厳しくなるかも知れませんが、日本の学会が出している質の良い学会誌ということで、海外のインパクトファクターの高い学術誌ばかりでなく、うちの学会誌に良い論文を投稿して欲しいものだと思っています。
 これまでに、海外の学術誌に投稿された論文の査読を何度か経験したことがありますが、ちょっと問題がありそうと感じてボクが却下の判断を出した論文が、その後二度目の査読が回ってくることなく出版されたのを発見したことが複数回ありますので、うちの学会誌は査読が厳しすぎるのかも知れません。しかし、質の悪い論文が世に出ることは問題が大きいと思うので、査読はしっかりしたいと思っていますし、良いデータを出されている若い研究者は応援したいと思っています。

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2014年3月21日 (金)

福岡伸一 著『ロハスの思考』

福岡伸一 著『ロハスの思考』

木楽舎
ISBN4-907818-71-8
762円+税
2006年5月20日発行
253 pp.

目次
はじめに
○ロハスの思考○勉強をしよう
ロハスの思考の基礎知識
○酸化と還元○ワンガリ・マータイさん(2004年ノーベル平和賞受賞者)のこと○ルシャトリエの法則○平衡を乱す操作○食べることの意味○狂牛病が問いかけたもの○エネルギーとエントロピーの原則○流れの思考○生命の新しくて古い定義○小さな生命系のサスティナビリティ○情報受容レセプターの感度を上げよう○五感のレセプター○環境問題を懐疑的に考える
懐かしい言葉を探そう
○時間その1クローン○時間その2進化○時間その3万博○時間その4加速○時間その5リスク
食について考える
○何を食べるか?○脳細胞の求めるものについて○水について考える○水をめぐるキーワード○ロハスな水をどう選ぶか○東京の水○雑穀の科学、あるいは雑穀のリアリティ○食育のための5つのキーワード○ロハス的食育5つの提案○食の未来と見えないプロセス
トーク・ウィズ
○坂本龍一○ヨーヨー・マ○レスター・ブラウン○モーガン・スパーロック○田中康夫
あとがきにかえて

「ロハス」という言葉も最近はあまり聞かなくなってしまったが、「ロハス」に関する本を読んだことがなかったので読んでみた。
「ロハス」とは、Lifestyles Of Health And Sustainabilityの頭文字をとった言葉である、ということである。Sustainableであることは大切なことであると思っているので、共感できる。
ざっと読んでみて、全体的に共感できる部分は多いのであるが、何か変だな、と思う部分が無いわけもない。例えば、PETボトル入りの水のこと。よくわからないけど、PETボトル自体Sustainableではないような気がする。

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2012年11月10日 (土)

谷本雄治著『週末ナチュラリストのすすめ』

谷本雄治著『週末ナチュラリストのすすめ』

岩波科学ライブラリー 193
ISBN978-4-00-029593-2
1,500円+税
2012年5月25日発行
118 pp.

目次
まえがき
第1章 見る
 生きている博物館/木の幹じろじろ宝探し/出会い頭にライオン級!/一点豪華もまた楽し/たまにはナイトウォーキング
 コラム1 お役立ちグッズ
第2章 拾う
 みすゞコレクション/古着の探偵団/死んでいたってボロだって/空クジなしの海岸歩き/手わざ磨いてプレゼント
 コラム2 ものぐさ流整理法
第3章 撮る
 ものぐさ御用達カメラ/目は口以上にものを言う/玄関立ちんぼ撮影術/ホントの顔はどこにある?/整理だけはいくらかマジメに
 コラム3 スキャニング図鑑
第4章 飼う
 米とるだけが田んぼじゃない/スネーク・ゼリーの魔力/いつのまにか生態園/ペットボトルの飼育術/シルクロードに思いをはせて
 コラム4 万能飼育フーズ
第5章 知る
 アリストテレスが提灯ぶら下げた?/山海名物博覧会/コオロギが国を滅ぼす/天から降ってきたオカリナ/本のこてしらべ
 コラム5 「自由研究」の研究

 著者の「谷本雄治」という名前を見て、「えっ!あの人なのか?」と思った。
 ボクはこれまでに3回ほど「谷本雄治」さんからボクの研究に関して取材を受けている。その「谷本雄治」さんは日本農業新聞の記者(現在は論説委員)である。今まで何人かから取材を受けたことがあるのだが、「谷本雄治」さんほどセンスが良い質問をしてくる人は他にない。生き物のことをよく知っているのである。
 本書の著者紹介のところを見ても、職業については書かれていない。「自称、プチ生物研究家」とあるだけである。しかし、本書の著者の「谷本雄治」さんは、日本農業新聞の「谷本雄治」さんであることは、ほぼ間違いないと思った。
 本書には、身近な生き物とつきあい、それを楽しむことがが誰にでもできることが書かれている。自然観察というと、深山幽谷にでかけなければできないように感じる人も多いかもしれないが、本書を読めば、そんなに遠くに出かけなくても、都会においても普段の生活圏の中で、自然観察を楽しむことができることがわかる。自然観察など難しいと考えずに、とにかく楽しんでしまおう、と本書は誘っているようである。
 これまで自然観察などしたこともない、という人には特にオススメ。

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2012年10月20日 (土)

高桑正敏(2012)『日本の昆虫における外来種問題(3)外来種と偶産種をめぐって』

高桑正敏(2012)『日本の昆虫における外来種問題(3)外来種と偶産種をめぐって』
月刊むし (501): 36-42 pp. (2012年11月号)

 「月刊むし」に連載されている、高桑正敏氏による「日本の昆虫における外来種問題」の3編目である。これまでの2編を読んで、高桑氏が考える「外来種」の概念については違和感を感じていたが、本編では高桑氏によって外来種の定義について論じられているので、ボクなりの感想を書き遺しておきたいと思った。
 高桑氏は、外来種を人為的な移動によるものか自然の営為による移動によるものであるかを区別しようとしている。しかし、生物の移動が、移動の記録が残っているものを除けば、人為的なものであるか自然の営為によるものであるかを識別するのは極めて困難であることを、高桑氏が本編中で認めているにもかかわらず、あくまで外来種を「人為的なものであるか、自然の営為によるものであるか」に基づいて定義しようとしているため、論理的に破綻していると思う。
 本編の註として、高桑氏によるこの考え方が池田清彦氏の『生物多様性を考える』(中公選書, 2012年)の中で糾弾されていると書かれているにも関わらず、それに対する反論にはなりえていないように感じられた。
 自然史の研究からは人為的な影響を排除すべきである、という高桑氏の考え方には理解できないことは無いが、そもそも、われわれが今暮らしている環境には、人為的な影響が全くない場所は、もしあるとすれば人跡未踏の地のみであり、われわれ人間が少しでも足を踏み入れた場所は、人為的な影響を受けているはずである。つまり、人間が自然史を研究しようとした場合に、人為的な影響を完全に排除することは不可能であるため、ある生物種の分布や生態を論じる場合に、人為的であるかどうかに重きをおくことは、大きな実りのあることではないと思われる。
 本編の中で例としてあげられているクロマダラソテツシジミやムラサキツバメが、人為的に植栽された植物を餌として、それらの植物の本来の分布地を離れた場所で発生することについて、「人為的であるか自然の営為であるか」を議論しているが、無駄なことであると思う。
 既にわれわれは、高桑氏の言わんとする「本来の自然」を知ることは不可能であるから、その生物の分布が「人為的であるか自然の営為であるか」を議論することは論理的にはなりえないと思う。
 生物は本来、人為的であるかどうかにかかわらず、移動する性質を持っている。分布も固定的なものではなく、時間とともに変動するものである。その変動が「人為的であるか自然の営為であるか」にこだわって「外来種と考えるかどうか」を考えるのではなく、ある生物が「どんなメカニズムで移動したのか」を追求する方が「科学的」と言えるのではないだろうか?
 とにかく、高桑氏は「本来の分布」が存在するという古い凝り固まった概念に囚われすぎていると思う。生物は移動するのだから、「本来の分布」など定義できるはずがない。

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神門善久著『日本農業への正しい絶望法』

神門善久著『日本農業への正しい絶望法』

新潮新書 488
ISBN978-4-10-610488-6-5
740円+税
2012年9月20日発行
237 pp.

目次
まえがき
第1章 日本農業の虚構
 二人の名人の死/有機栽培のまやかし/ある野菜農家の嘆き/農地版「消えた年金」事件/担い手不足のウソ/「企業が農業を救う」という幻想/「減反悪玉論」の誤解/「日本ブランド信仰」の虚構
第2章 農業論における三つの罠
 識者の罠/ノスタルジーの罠/経済学の罠/罠から逃れるために
第3章 技能こそが生き残る道
 技能と技術の違い/農業と製造業の違い/日本農業の特徴/欧米農業との対比/技能集約型農業とマニュアル依存型農業/技能こそが生きる道/防疫自由化と日本農業
第4章 技能はなぜ崩壊したのか
 日本の工業化と耕作技能/政府による技能破壊/農地はなぜ無秩序化したか/放射能汚染問題と耕作技能
第5章 むかし満州いま農業
 沈滞する経済、沈滞する農業/農業ブームの不思議/満州ブームの教訓/満州ブームと農業ブームの類似性
第6章 農業改革の空騒ぎ
 ハイテク農業のウソ、「奇跡のリンゴ」の欺瞞/「六次産業」という幻想/規制緩和や大規模化では救えない/JAバッシングのカン違い/JAの真の病巣/農水省、JA、財界の予定調和/農業保護派の不正直/TPP論争の空騒ぎ/日本に交渉力がない本当の理由
第7章 技能は蘇るか
 「土作り名人」の模索/残された選択肢/消費者はどうあるべきか/放射能汚染問題と被災地復興対策
終章 日本農業への遺言
主な参考文献

 神門善久氏の著書を読んだのはこれが2冊目である。最初に読んだのは『日本の食と農』である。この本もなかなか挑発的な本であり、刺激的だった。神門善久氏の新しい本が出ているのは知らなかったので、まずは本書を紹介していただいたH県農業技術センターのHさんにお礼申し上げたい。
 それにしても、刺激的な表題である。目次を見てさらにびっくり、終章の表題は本書が日本農業に対する著者の遺言であることを表している。
 本書の主張は終章の冒頭に要約されている。(1)日本農業の本来の強みは技能集約型農業にある。(2)耕作技能の発信基地化することにより、農業振興はもちろん、国民の健康増進、国土の環境保全、国際的貢献など、さまざまな好ましい効果が期待できる。(3)しかし、その農地利用の乱れという「川上問題」、消費者の舌という「川下問題」、放射能汚染問題の三つが原因となって、農業者が耕作技能の習熟に専念できず、肝心の耕作技能は消失の危機にある。(4)マスコミや「識者」は耕作技能の消失という問題を直視せず、現状逃避的に日本農業を美化するばかりで、耕作技能の低下を助長している。
 著者の日本農業に関する現状認識は、すべて正しいかどうかボクにはわからないが、おそらく大きく間違っていないだろうということは、本書を通して読んで感じることができた。本書の終章の表題は「遺言」となっているが、神門善久氏が存命中に、日本農業の問題点は改善されることはなく、悪い方向に向かっていくのが確実であろう、という予感を神門氏が持っているのであろうということが想像できる。
 本書を読めば、日本の農業だけでなく、他の産業も含め、産業構造、社会構造、政治的な圧力などにさまざまな問題があり、ちょっとやそっとの「手入れ」では改善が望めないであろうことが想像される。神門氏は農地だけでなく、宅地等を含めた土地の権利に関する情報の公開をすることを強く提案しているが、昨今の行き過ぎた「個人情報の保護」の状況を鑑みれば、ほとんど無理な話であるように思える。
 また、技能の継承の話についても、自然保護における希少種の保護の問題と同様であるように思える。人が資源(資金)を注ぎ込まなければ絶滅していくのは避けられないであろう。
 「焼け石に水」かも知れないが、本書では日本農業の改善にかんする様々な提言もなされているので、農業関係者だけでなく、消費者(=すべての国民)も読む価値は高いと思う。もちろん、本書を読んでどのように行動を変えるかは個々人の勝手である。
(以下2012年10月20日午後追記)
 ちょっと書き忘れたので追記する。
 ぼくたち農業技術研究者は、基本的には技術をマニュアル化することを期待されている。マニュアル化されるということは、誰でもできるようにするということなので、経験を積み重ねて習得する「技能」とは必然的に対立することになる。神門氏の主張が正しいとすれば、ぼくたち農業技術研究者がすべきことは、「技能」を身につけようとする農業者を対象に技術開発することになる。あるいは、農業技術研究は不要、ということになるかも知れない。いずれにしても、ぼくたち農業技術研究者は、研究を行うにあたり、どんな農業者を対象として考えるかは重要である。

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2012年9月22日 (土)

日本昆虫学会第72回大会(2012年9月16日・17日)印象記

 東京都町田市にある玉川大学で9月16、17日に開催された日本昆虫学会第72回大会に参加した。ボクは評議員ではないのだが、代理出席を依頼されていたので、その前日の15日の午後に玉川大学入りした。日本昆虫学会の評議員会は、各地域の支部選出の評議員が、各地域から最低1名が出席していないといけないという規約があり、東海地域の評議員が0になってしまう可能性があるから出席して欲しい、ということで依頼されたわけである。
 15日に玉川大学に着いたときは、蒸し暑くて、駅から大学までのダラダラの上り坂を歩いていると汗が噴き出してくるぐらいだった。しかし、評議員会の会場になっている教室に入ると、冷房が効いており、寒いぐらいだった。議事は滞り無く終了した。夕方5時半頃、評議員会を終えて外に出るとヒグラシの鳴き声が聞こえた。その他にも玉川大学ではアブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシの鳴き声を聞いた。
20120916blog01 16日からが学会の本番である。16日の午前中は一般講演。主に生活史関係の発表が行われる会場にいた。
◎C102 山崎和久・Schüte Kai・名和哲夫・土田浩治「ムネアカハラビロカマキリ(仮称)の日本からの発見と分布に関する報告」
 ハラビロカマキリに近縁なハラビロカマキリよりも大型の日本未記録種が岐阜その他数か所で発見されたという発表である。こんな大型種がこれまで気付かれずにいたというのは驚きである。ハラビロカマキリよりも大型で前胸が長く、胸部の腹面が赤色を帯びているので、ハラビロカマキリとの識別は難しくないと思われる。もともといた種なのか、移入種なのか、興味惹かれる。
◎D108 横地亮祐・三浦一芸・山岸健三「ミンミンゼミの形態的・地理的変異と遺伝子変異について」
 ミンミンゼミは斑紋や色彩の変異に富む種であるが、それの遺伝的変異を調べた研究である。が、遺伝的変異はほとんどない、ということであった。ミンミンゼミとクマゼミは棲み分けているという通説があるが、愛知県の知多半島にある美浜町では、両者が混棲する地域があるという言及があった。発表者の横地氏は広島大学の大学院生であるが、同じ広島大学に勤務していてセミの図鑑の著者でもある税所康正氏とは全くコンタクトしていなかったらしい。同じキャンパスにいるのにもったいない話である。

 午後の最初はアメリカ昆虫学会の会長のG. C. Brown氏による研究の国際連携に関する講演。アメリカ昆虫学会からは日本昆虫学会に対して、学生会員の相互会員制度が提案されており、その宣伝でもあったようだが、随所に日本語のスライドが使用されているにもかかわらず(「Google翻訳」を使ったそうである)、英語を聞くのが苦手なボクには内容を十分に理解できたとは言えない。情けないことである。

 次は学会賞受賞講演2題。
◎上村佳孝・三本博之「Comparative copulation anatomy of the Drosophila melanogaster species complex (Diptera: Drosophilidae).
 ハサミムシの交尾器の形態の進化を得意とする上村氏がショウジョウバエの交尾器についても優れた論文を書いているところがすごい。
◎丸山宗利・小松貴・R.H.Disney「Discovery of the termitophilous subfamily Termitoxeniidae (Diptera: Phoridae) in Japan, with description of a new genus and species.」
 アリやシロアリの巣に見つかる昆虫を得意とする丸山氏が日本産のシロアリの巣からもノミバエを発見したという興味深い発表である。

 次は総会。議事は滞り無く進行し、九州大学名誉教授の湯川淳一先生が名誉会員に決まった。

 さらに、大会主催のシンポジウム「昆虫の社会的貢献」。
◎Y. J. Kwon「Role and contribution of entomology for public in Korea」
 韓国昆虫学会の会長による、韓国の事例の紹介であった。マルハナバチが授粉昆虫として利用されていることなど。
◎中村純「みんなが知っている昆虫ミツバチは本当によく知られているか」
 ミツバチは、よく知られているようで実は誤解されていることが多い、という事例の紹介であった。一度誤った理解が定着してしまうと、その誤解を解くことはなかなか困難である、とのこと。この話を聞いて、「カマキリの雪予想」の話を思い出してしまった。
◎松浦健二「シロアリ研究における基礎と応用のフィードバック」
 新進気鋭のシロアリ研究者、この春、30代にして京都大学昆虫生態学研究室の教授に着任した松浦氏の講演は面白かった。緻密な観察に基づいた基礎的な研究から、シロアリの新しい防除法の開発に至るまでのワクワクさせられる話だった。松浦氏の今後の研究の発展を期待させられる内容であった。

 夕刻終了したシンポジウムの後は懇親会。大学内の食堂で開催された。懇親会の料理は学会の印象を大きく左右するだけに、学会で最も重要なプログラムだと言っても良いかも知れない。今回は去年の松本大会のように料理が足りなくなってしまうようなことはなく、落ち着いて話をしながら食事をすることができた。料理の質は素晴らしかった2009年の三重大会のように、これと言って高いわけではなかったが、最後に玉川大学特製のハチミツ入りアイスクリームが出たところは良かったと思う。
 このあと二次会には参加せず、おとなしく町田市内のビジネスホテルへ。町田の駅前は異様に人口密度が高く、息苦しさを覚えた。

 学会2日目の午前中は2本の公募シンポジウムが同時並行で開催された。ボクは「ネオバイオミメティクス:昆虫学と工学の協調」に出席した。昆虫の形態や機能を模倣した技術が様々な用途に利用されつつあることが紹介された。普段はあまり聞かない内容の話だったので、目新しさもあり、面白かった。

 昼休みには会場で売られていた玉川大学ブランドのハチミツを買った。何種類かあったが、それほどお安くなかったので、いくつも買うことは躊躇させられ、結局、「ソバとシナノキのハチミツ」を1つだけ買った。
20120916blog02
 学会2日目の午後は一般講演。この日もやはり生活史関連の講演が行われる会場にほとんど張り付いていた。ボクはC213の講演で「ヒメジュウジナガカメムシの生活史に関する若干の知見」という演題で、このブログに断片的に書いてきたヒメジュウジナガカメムシの観察記録をまとめて話をした。オチの無い話ではあったが、京都大学名誉教授の藤崎先生から「秋にガガイモの種子に来ているカメムシはヒメジュウジナガカメムシではないのか?」と質問され、「多分そうだと思うが、ヒメジュウジナガカメムシは、種子がなくても、茎葉からの吸汁だけで繁殖ができるところが生活史戦略的にみても面白いところだと思う」と答えた。
 一般講演の後は小集会。参加したい小集会が2つ重なってしまい(と言うか、今回の大会では会期が2日間と短いために、小集会の時間帯が1つしかないのがそもそもの問題であるわけであるが)、よく考えたあげく、「日本半翅類学会小集会」の前半に出席したあと、「第14回昆虫の季節適応談話会」の後半に出席することにした。
 「日本半翅類学会小集会」では、北九州の小倉高校の高校生によるクワキヨコバイ類に関する研究発表があった。奥寺繁さんの指導のもと、今年の春から研究を始めたばかりだと言うことだが、しっかり調査されていると感じさせられた。
 「第14回昆虫の季節適応談話会」では田中誠二さんの「亜熱帯昆虫の休眠の意義と進化」の話を聴いた。季節適応としての休眠は温帯地域を中心に研究されてきており、亜熱帯地域の昆虫における休眠はまだ十分に研究されているわけではない。田中さんは自身の豊富な亜熱帯地域での研究経験をもとに、いくつかの昆虫(クモを含む)の亜熱帯地域における休眠の適応的意義について解説した。ボク自身、石垣島に暮らしていた経験から、亜熱帯地域の昆虫の生活史に深く興味を抱いており、納得させられる話が多かった。

 小集会の終了後は、再び「日本半翅類学会」のメンバーと合流して、町田市内に繰り出して飲んで(ボクはノンアルコールビール)いろいろ虫談義に花を咲かせた。世界でも片手で数えられるほどしかいないハサミムシの分類の専門家のNさんが参加していたので、ハサミムシの話をたくさんした。まだ、日本のハサミムシには分類学上の問題がたくさん残されているようである。

 学会の最中は天気が不安定で、突如として激しい雨に降られたりと、けっこう大変であった。18日の朝に帰路についたわけだが、ボクが乗った新幹線は何事も無く無事に名古屋まで着いたが、少しあとの新幹線は岐阜羽島と米原の間で運転が見合わせになったので、名古屋に着くのも大変だったかも知れない。とにかく、昼過ぎには無事に自宅に帰り着き、自宅で昼食をとった。

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2012年7月21日 (土)

池田清彦著『さよならダーウィニズム』

池田清彦著『さよならダーウィニズム 構造主義進化論講義』

講談社選書メチエ 120
ISBN4-06-258120-5
1,553円+税
1997年12月10日発行
242 pp.

目次
プロローグ ダーウィニズムの限界
 進化論の基本図式/ネオダーウィニズムに対する三つの反証
第一章 「進化論」の歴史−ダーウィニズム以前
 プラトンとアリストテレス/「進化論」前夜−中・近世ヨーロッパの生物観/アマルクの『動物哲学』
第二章 ダーウィニズムとはなにか
 『種の起源』を読む/「生物」と「進化」のトートロジー/メンデルの再発見
第三章 ネオダーウィニズムの発展
 総合学説の提唱者たち/分子生物学の発展/遺伝子とは何か
第四章 構造主義的アプローチ
 名と時間/共時性と拘束性/形式と認識
第五章 構造主義進化論
 進化法則/構造の性質/情報と解釈系
エピローグ 科学の挑戦
ブックガイド
あとがき
索引

 本書の「あとがき」によれば、本書は「語り下ろし」であり、副題に「構造主義進化論講義」とあるように、講談社学術局の面々を前にした講義を本という形にしたものである。
 池田清彦氏の「構造主義生物学」に関する本をこれまでに色々読んできた。本書は1997年に出版されたものだから、決して新しいものではない。これまでに色々と「構造主義生物学」に関する池田清彦氏や柴谷篤弘氏の著書を読んできたので、「構造主義生物学」についてのボクの理解が深まったからかも知れないが、本書は「ネオダーウィニズム」と「構造主義生物学」を対比させながら、「ネオダーウィニズム」の問題点を明らかにし、それの代替の理解の仕方としての「構造主義生物学」が相当分かり易く語られているように思えた。
 「ネオダーウィニズム」による生物進化の考え方しか知らないと、「構造主義生物学」による生物進化の捉え方はかなり難解のように思えるが、本書は「ネオダーウィニズム」と対比させながら説明されているので、理解し易いと思う。
 本書の中でも(他の著書でも書かれているが)、日本におけるオオオサムシ属の4種のミトコンドリアDNAによって描かれる系統と外部形態から描かれる系統が全く異なり、遠隔地の外部形態による同種とされる種よりも、同じ地域に棲息する別種の方が、ミトコンドリアのDNAによる系統関係は近縁であることが例に挙げて説明されている。これを突然変異と自然選択によって種分化を考えるネオダーリニズムによる進化メカニズムで合理的に説明することは不可能であり、オオオサムシ属の属としての同一性を拘束する構造が4つの安定的な構造をとりえて、別の地域においても同様な形態的な種にしかなりえないと構造主義的に考えれば説明することが可能になる。「構造主義生物学」はとっつきにくい考え方であるが、このように具体的なデータをもとに説明されると、説得力があるように感じられる。
 本書の中でも語られているように、「構造主義生物学」に基づいた生物進化は未だに全く証明されているわけではないが、「ネオダーウィニズム」が生物の種レベル以下の小進化を説明し得ても、大進化を説明することは無理であることはほとんど明らかになっているので、生物の大進化を説明するメカニズムとして構造主義的な考え方はひとつの大きな柱になっても良いように思える(だからこそ、ボクが最近は「構造主義生物学」に関する本をたくさん読んでいるわけであるが)。
 もちろん、「構造主義生物学」的な考え方に基づいた進化が実際に起こったかどうかわからないし、それ以外の考え方も可能かも知れないが、「ネオダーウィニズム」に限界が見えてきた以上、もっと「構造主義生物学」的な考え方のように、「ネオダーウィニズム」以外の考え方が他に出てきても良いように思う。

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2012年7月 5日 (木)

井田徹治著『生物多様性とは何か?』

井田徹治著『生物多様性とは何か?』

岩波新書(新赤版)1257
ISBN978-4-00-431257-4
720円+税
2010年6月18日発行
ix+224+2 pp.

目次
はじめに
第1章 生物が支える人の暮らし
 1 破れてわかる命のネットワーク
 2 生態系サービスという見方
 3 生物多様性の経済学
 コラム/サメとナマコの危機
第2章 生命史上最大の危機
 1 増える「レッドリスト」
 2 地球史上第六の大絶滅
 3 生態系の未来
 4 里山−日本の生物多様性保全の鍵
 コラム/侵略的外来種
第3章 世界のホットスポットを歩く
 1 ホットスポットとは
 2 開発と生物多様性−マダガスカル
 3 南回帰線のサンゴ礁−ニューカレドニア
 4 農地化が脅かす生物多様性−ブラジルのセラード
 5 大河が支えた生物多様性−インドシナ半島
 6 日本人が知らない日本
 コラム/地球温暖化と生物多様性
第4章 保護から再生へ
 1 漁民が作った海洋保護区−漁業と保全の両立
 2 森の中のカカオ畑−アグロフォレストリー
 3 森を守って温暖化防止
 4 種を絶滅から救う−人工繁殖と野生復帰
 5 自然は復元できるか
 コラム。種子バンク
第5章 利益を分け合う−条約とビジネス
 1 生物多様性条約への道のり
 2 ビジネスと生物多様性
 コラム/ゴリラと「森の肉」
終章 自然との関係を取り戻す
参考文献

 表題は『生物多様性とは何か?』であるが、最後まで読み通してみても、本書には「生物多様性」という言葉の定義すら書かれていなかった。ただひたすら、「いま地球環境が破壊されつつあって『生物多様性』がなくなると困ったことになりますよ」ということについて、様々な例が羅列されているだけである。本書に書かれている『生物多様性』という言葉は様々な意味で使われていると解釈でき、そのまま『生態系』と良い変えてよさそうな箇所もあれば、『自然』と言い換えてよさそうな箇所もある。『生物多様性』というタームが一義的に使用されていないため、理解の妨げになっていのではないかとも思われる。
 だから『生物多様性とは何か?』という表題に惑わされて、本書に本当に『生物多様性とは何か?』が書かれていると思ったら、とんでもない「はぐらかし」を食わされたと感じられるはずである。本書を読んでも、けっきょく『生物多様性ってなんだろう?』という疑問が残るだけではないかと思われる。
 これはボクが「生物多様性」という表題がつけられた様々な本をこれまでに読んできたから以上のように理解できるのであって、『生物多様性』に関する予備知識が何もない人が本書を読んだところで、『生物多様性とは何であるか』は到底理解できないであろう。文字通りの意味で『生物多様性とは何か?』を理解するためには、ボクがこれまで読んだ本の中では池田清彦著『生物多様性を考える』(中公選書)がもっとも適しているように思われる。
 本書に以上のような欠陥があると思われるが、本書の中で主張されていることは、基本的に違和感はないと感じられた。ただし、『生物多様性』という概念が、決して科学的なものではなく、あくまで政治的なものであると書かれていないのは、説明不足であるか、あるいは著者自身が本当に気付いていないかのどちらかであると思う。
 いずれにせよ、本書に書かれていることは「地球環境のバランスが崩れると様々な不都合が起こることが予想され、それを未然に防ぐためには、ここに書かれているような対策が考えられますよ」ということであるので、『生物多様性とは何か?』という表題は全く不適切であり『地球環境のバランスを崩さないために我々ができること』(例)のような表題が適切であると思われた。さらに言えば『生物多様性』という言葉も無理に使われているような箇所も多いので、もっと適切な別の言葉で言い換えた方が、著者の主張が理解し易くなるのではないかとも思われた。

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2012年6月30日 (土)

池田清彦著『「進化論」を書き換える』

池田清彦著『「進化論」を書き換える』

新潮社
ISBN978-4-10-423107-2
1,400円+税
2010年3月25日発行
190 pp.

目次
第一章 進化論の歩み−ダーウィンは何を間違えたのか
 進化論のあけぼの/ラマルクの進化論/ダーウィンの進化論/ネオダーウィニズムの勃興とその崩壊
第二章 進化機構論−ゲノム解読をしても生物の仕組みがわかないのはなぜか
 システムとしてのゲノムと細胞/DNAのメチル化/ヒストンたんぱく質によるDNAの転写制御/ゲノムと解釈系の位相/獲得形質は遺伝するのか/進化とは発生プロセスの変更である/発生遺伝子と進化/ホメオティック遺伝子の発現/高分子のネットワークシステムとしての生命/ヘテロクロニーとヘテロトピー/自然選択は進化の主原因ではない
第三章 進化論の最前線−大進化の原因は何なのか
 突然変異と自然選択による進化/形はどのように進化するのか/表現型多型と形態の進化/側系統を擁護する/多様化する生物/収斂と並行進化
あとがき

 表題の『「進化論」を書き換える』というのは、キリスト教原理主義に基づいて「創造説を復活させる」というのではなく、いま進化論の主流になっているネオダーウィニズムに対して批判し、構造主義生物学の考え方にもとづいて「生物進化をあらためて考え直してみよう」というスタンスである。
 ネオダーウィニズムの発達によって生物進化の理論は飛躍的な発展を遂げたが、ネオダーウィニズムが説明できたのは、種レベルの小進化のみであって、高次分類群レベルの進化の説明は完全に失敗していると言える。そのように不完全なネオダーウィニズムであるが、これだけの支持者(ほとんど全ての進化生物学者)を得たのは、R.A.フィッシャーにはじまった「進化の数式による記述」によるところが大きいのではないかと思う。現象を数式として記述できれば、理論を発展させることは極めて容易になる。その極まったところにR.ドーキンスの「利己的な遺伝子」があるのではないかと思う。進化を遺伝子に還元してしまったわけである。
 しかし、高次分類群の進化については、突然変異、自然選択、遺伝子浮動だけを説明原理とするネオダーウィニズムではとうてい説明しきれるものではなく、新たな理論が必要となってくるのは必然とも言える。そこでネオダーウィニズムに対して殴り込みをかけたのは、日本では柴谷篤弘と池田清彦による構造主義生物学である。
 しかし、この構造主義生物学というのは概念的にも大変理解し難い考え方である。もっとも、それはボクがネオダーウィニズムの大きな波の中で研究生活の始まりを過ごしたことが大きいかもしれない。先に記したように、ネオダーウィニズムは数式で記述できる。数式は理解の助けになるし、理論の深化にも大きく貢献する。しかし、構造主義生物学を数式で記述することはできない。あくまで言葉で定義し、言葉で説明できるだけである。
 また、もうひとつ、構造主義生物学には具体的な物証に欠けている部分が大きいというのも、構造主義生物学が支持を得られない大きな理由だと思う。しかし、ネオダーウィニズムについても、高次分類群の進化については全く物証がないのは同じであるから、ネオダーウィニズムが優位にあるとは言えないのも確かだと思う。
 本書は、一貫してネオダーウィニズムを批判しながら、構造主義生物学に基づいて、生物の進化を再び体系化しようという試みであると思われる。生命を遺伝子に還元するのではなく、細胞を中心としたシステムとして捉え、高次分類群の進化についても説明しようとしている。もちろん、構造主義生物学ですべてを説明できるわけではないが、これまでに解明された物証をもとに、ネオダーウィニズムで説明できなかった(ということは、その部分に関してはネオダーウィニズムは間違っている、と池田氏は主張しているわけであるが)現象を構造主義生物学でうまく説明できている部分も多いと思う。
 構造主義生物学はネオダーウィニズムと完全に対立した概念だと考えている人が多いかもしれないが、構造主義生物学はこれまでに明らかにされてきた物証を無視するのではなく、解釈し直すことが多くなっているが、それによってネオダーウィニズムでは説明できなかった多くの現象が解釈可能になってきているように思えるし、種レベルの小進化に関して構造主義生物学はネオダーウィニズムを否定しているわけではない。
 ネオダーウィニズムの基本的な部分を理解している人にとって、本書は「構造主義生物学とは何か」を理解するには適切な文献になっているのではないかと思う。

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2012年6月24日 (日)

池田清彦著『虫の目で人の世を見る』

池田清彦著『虫の目で人の世を見る 構造主義生物学外伝』

平凡社新書 022
ISBN4-582-85022-7
720円+税
1999年11月17日発行
262 pp.

目次
はじめに
1 ネキダリス狂時代
 オオクワガタ今昔/ネキダリス狂時代/幼虫を飼う?/クックホンのフタオチョウ/ベトナム、ハゲ山紀行/珍蝶・クラシプス/ゴキブリ/はじめてのカラスアゲハ/高尾の虫たち/丹沢のギフチョウ/春の虫採り、冬の虫採り/蝶吹雪
2 滅びないホソオチョウ
 里山の自然紀行−多摩丘陵に残る三十年前の風景/笛吹川−土手が見守る人と蝶/ベトナム・、虫紀行
3 ゾウとミズスマシ
 生きている機械/カメキリ目への変身/オーストラリア・クワガタ余談/駄々こね/足立区梅島、一九五〇年代/虫の目 人の目(中身と型/大学改革と責任/クワガタの話/ゾウとミズスマシ/メジロ捕り/クローン人間/台湾とシイの花/パソコン通信と「世界3」/墓の意味/ハノイの子供たち/セミの声/ヨコヤマヒゲナガカミキリ/毎日酒を!/翅のない蛾/猫との交際/「クローン人間」ふたたび/オリンピックの効用/春蘭/「主婦の脳」/ギフチョウ/種ありバナナ/大学審議会VS珍品カミキリ/寿命と多様性/オカルトの時代)
4 サイボーグ・オリンピック
 ぼくは猫と話ができる!/サイボーグ・オリンピック/クローン羊が開く<欲望>/ウィルスというメタファー/生命を流れる時間
5 カッパ「超」進化論
 カッパ「超」進化論
あとがき
初出一覧

 構造主義生物学者・池田清彦氏によるエッセイ集で、1994年から1999年に雑誌等に掲載されたものが再録されたものである。この本は三重県立図書館で借りてきたが、書庫にしまい込まれていたものである。
 池田氏はあちこちで同じネタを使っているので、一見一度読んだことがあるような気がしたものもあったが、本書を読むのは初めてのように思われる。
 副題として『構造主義生物学外伝』となっているが、構造主義生物学そのものについては語られておらず、ところどころに構造主義生物学的な主張が書かれているだけで、構造主義生物学そのものについては全く触れられていないと言っても良い。表題も『虫の目で人の世を見る』となっているが、『虫屋の目線で人の世を見る』の方が当たっていると思う。
 虫採り紀行もあれば世相を見たものもあり、気楽に読める本であった。虫採りを扱った部分では、虫採りにおける虫屋の気持ちが非常によく表現されており、基本的に虫屋であるボクには感情移入できる。
 多摩丘陵における町田市の小野路における昆虫採集について書かれている部分で、写真家の新開氏や出版社の亀澤氏など、ボクが直接面識がある人が実名で登場していて、親近感を感じた。この本が出版されたのは20年以上も前のことだから、その当時良い虫採り環境が残されていたとしても、さすがに今は環境が変わってしまっているだろうな、と想像する。
 最終章の『カッパ「超」進化論』は国立河童研究所の特別研究員である井桁希世氏が書いたという形式がとられているが、もちろん「井桁」は「池田」を捩ったものであり、「希世」は「清彦」を捩ったものである。形式的には鈴木雄一郎氏が書いた論文を紹介する形式になっている清水義範氏の『蕎麦ときしめん』に似ている。また、架空の動物の進化を論じている点は、シュテンプケ氏の『鼻行類』に似ている。おそらくそれらを模したものであろうと想像される。
 まあ、ともかく、気楽に読める本であるので、気分転換にはオススメである。

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