地球環境

2009年8月14日 (金)

池田清彦著『そこは自分で考えてくれ』

池田清彦著『そこは自分で考えてくれ』
角川学芸出版
ISBN978-4-04-621399-0
1400円+税
2009年3月15日発行

目次
法的規制とマイノリティーの権利
マイナーな普遍
民主主義のセキュリティー
世界最大の難問−人口問題編
世界最大の難問−エネルギー編
クレーマーは不治の病なのか
コニュニケーション不全社会
京都議定書のカラクリ
食と性の分かち合い
抹殺されるマイノリティー
デタラメな法律をつくること
虫を採りにラオスへ行く
アモク・シンドロームの行方
温暖化より危ないこと
暴走する正義
安全な場所に住む
国家は何のためにあるのか
分類とシステム
あとがき

 本書は、角川学芸WEBマガジン(2007年7月から2008年12月)に掲載された「ものの見方について−イデオロギーのはざまで」を改題し、単行本化されたものである。

 また池田清彦である。学生時代に池田氏の「構造主義生物学とは何か」を読んで、中身を皆目理解できず、ずっと池田氏の著書を避けていたが、構造主義生物学とは直接関係のない氏の本を読むと面白く、ついついはまってしまったというところである。
 「そこは自分で考えてくれ」とは随分いいかげんで無責任なタイトルだが、要は、偏向した(池田氏によれば、日本の大新聞やマスコミはほとんどマジョリティーのみに与し、マイノリティを無視あるいは敵視しているというように偏向している)メディアの情報しか得られない一般国民に対して、情報を鵜呑みにしないで確かな情報をもとに自分で考えないとえらいことになりますよ、と言っているということだ。
 めんどうな問題に出くわした時、ついつい自分が理解できるところまでは理解するが、そこで思考停止に陥ってしまうことはしばしばありがちである。本書(に限らず、生物学とは直接関係のない池田氏の著書のほとんどもそうだ)は、そこに警鐘を鳴らしてくれるような本である。
 池田氏の考えの根底にあるのは、自由と平等の考え方である。今の世の中が、いかに不平等で問題の多いものであるかを、本書は教えてくれる。もっとも、これはぼく自身があまりに世の中の情勢の把握を怠っているか、ということにも関係しているが。無駄な法律が次々とつくられて、日に日に窮屈に感じているぼくにとって(本書に従えば、自分はマイノリティーに属する面が多いのだと思う)、本書はその理由を教えてくれているという点で、読んでいて気持ちがよくなる。
 もっとも、ぼく自身の人生ももう半ばを過ぎていることは間違いないと思われるので、このような本は、これからの社会を動かす若い人に読んで欲しい。

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2009年8月13日 (木)

池田清彦+養老孟司著『正義で地球は救えない』

池田清彦+養老孟司著『正義で地球は救えない』
新潮社
ISBN978-4-10-423105-8
1000円+税
2008年10月25日発行

目次
はじめに(池田清彦)
I ニセモノの環境問題(池田清彦)
1 「地球温暖化脅威論」こそ脅威
2 北海道洞爺湖サミットでわかったこと
3 日本にエネルギー戦略はあるか
4 生物多様性の保全という「正義」
5 人口−ほんとうにほんとうの環境問題
II 人間と環境のあいだ(池田清彦×養老孟司)
1 ねじれた正義
2 人間は環境を乱暴に見ている
3 エネルギー問題のゆくえ
4 ほんとうの「エコ生活」とは
あとがき(養老孟司)

 今日から夏休みを取った。特に用も無いのに出かけるのはエネルギーの無駄遣いなので、図書館で借りて本を読むのは良い選択肢だと思う。
 本書は両著者よにる『ほんとうの環境問題』の後を受けたような位置付けになっているが、内容については『ほんとうの環境問題』と大きく変わるところはないので、『ほんとうの環境問題』を読んでいても読んでいなくても関係ないと思われる。
 本書の著者である池田清彦氏も養老孟司氏も、世間一般の考え方とはちょっと違った考え方を持っている人である。おそらく、ぼく自身の物事の考え方も、世間一般よりも池田氏や養老氏により近いと思う。だから、本書を読んでいても、あちこちで「そうだそうだ」とうなずきながら読むことになった。
 京都議定書を批准したことは政治的に失敗だった、と池田氏は指摘しているが、それは1990年を基準に二酸化炭素の排出基準を決めたことは、それ以前に日本はいわゆる省エネをかなり達成していたので、それ以上に二酸化炭素の排出を減らすことが極めて困難であることがであるのに、日本政府は議長国として良い格好をするためだけに受け入れたからである、という理由である。それはともかく、本書では二酸化炭素の排出などは些末な問題であると言い切っている。本当の問題は、エネルギー問題であり、人口問題であり、石油の供給量を減らせば二酸化炭素の問題は解決するはずなのに、石油の供給を増やして二酸化炭素を減らせというのは馬鹿げていると言い切っている。そのとおりだと思う。2008年7月の洞爺湖サミットでも、具体的なことが何も決まらなかったことを池田氏は評価しているが、なるほど、と思った。資源もエネルギーもない日本は、石油エネルギーが使えるうちに、それを使って代替エネルギーを開発するために、石油の消費を増やさなければえらいことになる、と指摘しているが、まさにそのとおりだと思う。
 生物多様性の問題にしてもそうである。来年名古屋で生物多様性に関する締約国会議が名古屋で開催されることが決まっているが、日本では、「生物多様性を守ろう」=「環境を保全しよう」というお決まりの表面的な考え方だけで動いており、生物多様性の何が問題で何が大切であるのか、少なくとも一般の人が理解できるような報道はなされていない。本書では、その点についても様々な指摘がされている。些細な話だが虫屋の立場から見た場合、絶滅が危惧されている種を採集すると罰せられるのに、ダムなどの人工物を作ってその環境を破壊して何のお咎めも無いのはおかしい、と。さらに、種の保存のためなら、人工増殖をすれば良いのに、一般の人が天然記念物に指定されている種を採集して人工増殖をすることは許されていないのはおかしい、と。要するに、何が大切なのか、政治家や役人や経済学者はわかっていない、と言っている。
 『ほんとうの環境問題』でも言えることだが、本書は、いわゆる常識に囚われてしまって見えにくくなっている本当に大切なことが何であるかを再認識させてくれる意味で、目を覚まさせてくれる本だと思う。
 本書の最後の方では、画一的な考え方でなく、考え方にも多様性があった方が良い、と指摘されている。原理主義ではまずいのである。そういう意味で、基準からはずれた人間が叩かれる日本という国は、考え方の自由が許されにくいという意味では北朝鮮よりもヤバいかも知れないと指摘されているが、それにも同意できる。
 普段の生活の中で様々な束縛感を感じているぼくとしては、本当は何事も「ほどほど」が良いと思っているが、本書でも「ほどほど」が良いと指摘されており、少し気が楽になったように思える。

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2009年6月21日 (日)

レイチェル・カーソン著(青樹簗一訳)『沈黙の春』

レイチェル・カーソン著(青樹簗一訳)『沈黙の春』
1987年5月15日発行
新潮社
ISBN4-10-519701-0
2000円(本体1942円)

 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』('Silent Spring', 1962)と言えば、誰でもその書名ぐらいは知っているものだと思っていたが、どうやらそうではないらしいことがわかってきた。それはぼくにとっては驚きだ。
 ぼくにとっては、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』に書かれている大まかな内容は知っていても実際には読んでいない、という状態だった。
 最近、環境の倫理に関する本を濫読しているが、そのなかで、やはり実際に読まなければいけないと思って、図書館で借りてきて読んだ。
 『沈黙の春』では、有機塩素系殺虫剤に代表される化学合成農薬が一気に広がった時代に、その使用に関して警鐘を鳴らしたことにより、主に化学工業界から大きな批判を浴びせられた本である。
 全編を通して、様々な生物がいなくなったとか、野生生物の体内に農薬が蓄積しているとかいうデータにもとづいて、冷静沈着に、これでもか、これでもか、というほどしつこいまでの書き方がされているのに驚かされた。
 最初に書かれていることだが、カーソンは有機合成農薬のすべてがいけないとは一切かかれておらず、過度の使用(濫用)がいけないと言っている。本当に必要な時には使うのもやむを得ない、という立場だ。当時は、アメリカ合衆国農務省も化学合成農薬一辺倒の考え方であり、それに対しても鋭い批判が重ねられている。確かに、その頃に書かれた、ヘプタクロールやディルドリンなどの有機塩素系殺虫剤の害虫に対する影響を調べた論文を読んだことがあったが、この本を読んで、その背景を理解することになったが、それに気付いていなかったとは、これまで自分の読みが甘かったとしか言えない。
 現在新しく登場する化学合成農薬は、皆殺し的な農薬はほとんどなくなり、人間や家畜や天敵に影響の小さいものが大半を占めるようになってきた。このような本が書かれたのが今から50年近く前のことであるが、やっとカーソンの描く理想に近づいた、というところであるように思える。とは言え、まだまだ古い時代に開発された皆殺し的な農薬が使用されている現状は、さらに改善すべきだと思う。
 この本には、翻訳者である青樹簗一氏による30ページ以上にも及ぶ解説が付けられている。青樹簗一がどんな人なのかという紹介が書かれていないのだが、当時の社会情勢やアメリカや日本における研究の状況なども詳しく書かれており、本書が書かれた背景を理解する大きな助けになっている。1950年代はじめまでは天敵の研究もかなり行われていたのに、一気に化学合成農薬一辺倒に傾いてしまったのには、化学工業業界と合衆国政府の間に、何か政治的な取引が存在していたことは疑いないと思われる。
 『沈黙の春』の書名は知っていても読んだことがない、という人はおそらく多いだろうが(ついこの前のぼくのように)、一度読んでみる価値の高い本であると思う。

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2009年6月14日 (日)

加藤尚武編『環境と倫理 自然と人間の共生を求めて』

加藤尚武編『環境と倫理 自然と人間の共生を求めて』
1998年8月20日発行
有斐閣
ISBN4-641-12056-0
1,600円+税

目次
第1章 環境問題を倫理学で解決できるだろうか−未来に関わる地球規模の正義(加藤尚武)
1 環境問題とは何か 環境問題の基本的構造
2 意思決定方式の重点移動 倫理から法律へ
3 自然の歴史性 自然を守れという判断の根拠
4 環境倫理学の三つの主張 地球の有限性,世代間倫理,生物保護
5 環境に対する伝統的宗教の責任 環境問題による半分原理としての正義の問い直し
6 環境を守るための正義 環境的正義の現実化の条件
第2章 文明と人間の原存在の意味への問い—水俣病の教訓(丸山徳次)
1 「公害から環境問題へ」? 「公害」概念の再評価
2 水俣病の原因企業と原因究明 政府見解までの12年
3 水俣病の原因とは何か? 人間無視と差別の仕組み
4 認定制度の問題性と司法・政治システムの限界 水俣病は終わらない
5 水俣病事件の責任とは何か 病根としてのシステム社会
第3章 化石燃料の枯渇と環境破壊とどちらが先にくるか 廃棄の限界と資源の限界(河宮信郎)
1 都市・工業文明の二重の限界 資源枯渇と環境荒廃
2 成長システムの猛威 「成長」は一時的・局所的にのみ可能
3 成長主義転換の必然性 物的欲望・需要は飽和する
4 環境としての水循環と資源としての水 更新性資源の根源が枯渇しつつある
5 現実に進行している温暖化 現実の継続も許されない
6 資源の世代間配分と価格メカニズム
7 科学技術の役割と限界
第4章 アマミノクロウサギに代わって訴訟 自然物も権利をもつか(山村恒年・関根孝道)
1 日本での自然の権利訴訟 自然物の原告適格
2 自然の権利の考え方はどのようにしてできてきたか 環境倫理と自然の権利
3 アメリカにおける自然の権利訴訟の展開 アメリカの判例の変遷
4 日本における自然の権利論の展開 環境権から自然の権利へ
5 自然の権利をどのように考えるか 権利の配分からみら自然の権利
6 まとめ 自然の権利の類型と性格
第5章 「未来世代に対する倫理」は成立するか 世代間の公正の問題(蔵田伸雄)
1 「未来世代に対する倫理」としての環境倫理 未来世代に対する義務と責任
2 「未来世代に対する倫理」の根拠は何か さまざまな倫理的根拠とその問題点
3 「未来世代に対する倫理」の困難 相互関係の不成立
4 選択の結果の想像と因果関係の認識 私たちの選択と未来
第6章 環境正義の思想 環境保全と社会的平等の同時達成(戸田清)
1 便益と被害の不平等な分配 金持ちが環境を壊し,貧乏人が被害を受ける
2 資本主義,ソ連型「社会主義」,南北問題 企業や国家への力の集中が招く環境破壊
3 アメリカにおける「環境人種差別」と「環境主義」 有色人種や低所得層にも広がる環境運動
4 手続きの民主化 民衆の自治と情報公開は環境保全の必要条件
5 「動物の権利」と「自然の権利」 他の生物との共生が環境保全の土台
第7章 生物多様性保護の倫理 「土地倫理」再考(谷本光男)
1 生物多様性の保護と人間中心主義 環境主義者の異議申立て
2 「土地倫理」の思想 倫理的ホーリズム
3 [土地倫理]の問題点 自然主義的誤謬と環境ファシズム
4 結びにかえて 価値の焦点
第8章 自然保護は何をめざすのか 保全/保存論争(須藤自由児)
1 保全と保存 ピンショーとミューア−−−最初の論争
2 保全/保存の定義 自然の権利,内在的価値
3 個体主義的保存論 テーラーとレーガン
4 全体論的保存論 キャリコットの生態系中心主義とその修正
5 自然・環境の保護と社会的公正の実現 「人間と自然との対立」という図式を超えて
第9章 環境問題に宗教はどうかかわるか 人間中心から生命中心への<認識の枠組み>の変換(間瀬啓允)
1 自然に対する人間のかかわり 自然倫理の基盤となるもの
2 日本人の自然観 仏道と結びついた日本人の自然理解
3 西欧の自然観 逸脱した人間中心の自然理解
4 共生の思想 育成されるべき市民意識
5 仏教経済学 非物質的な価値の尊重
6 自然との霊的結合 生命中心の自然理解
第10章 消費者の自由と責任 対環境的に健全な社会を築くために(本田裕志)
1 環境問題における個人の自由と責任 自由社会にひそむ環境破壊の根
2 消費生活を制約する条件 環境倫理のさまざまな立場から
3 大量消費生活の克服のために私たちは何をすべきか 対環境的に責任ある生活様式をめざして
4 個人の自由の新しいあり方 対環境的に健全な社会の具体像
事項索引
人名索引

コラム
熊沢蕃山と安藤昌益(加藤尚武)
レイチェル・カーソン(神遠恵子)
ハンス・ヨナス(盛永審一郎)
エマソンとソローと自然の教育(鵜木奎治郎)
ジョン・ミューア(岡島成行)
環境芸術は自然の治癒をめざす(伊東多佳子)


 「生物多様性」あるいは「環境」を守るとはどういうことか、ということについて、自分なりの理解をするために読んだ。この本もこの前に読んだ岡本裕一朗著『異議あり!生命・環境倫理学』と同様に、問題点がわかりやすく整理されているという点では読み易かったと思うが、一部を除けば結論のようなことは書かれていない。まあ、ここから先は自分で考えてみなさい、ということだろうと思うが、まさにそのとおりで、各章の終わりには「演習問題」が出されている。参考文献も多数上げられているので、環境問題について考える基礎として本書が読まれることが想定されていると思う。
 多数の著者から、さまざまな方向から環境問題への考え方が示されているので幅広く環境問題を理解するのには適した書物だと思われる。
 最後の章の「消費者の自由と責任」には、かなり具体的な問題点の指摘があり、著者の考え方が一番強く出されていると思った。普段の生活では、消費することと環境の問題を考えることはなかったが(とは言っても、この行為は本当に環境にとって適切な行為だろうか、と自問することはときどきあったが)、この章を読むことにより、これまでモヤモヤとしてあまり理解できていなかった部分か明確になったように思える。
 しかし、全体的に見れば、倫理学者といわれる「文系」の人が書いた文章であり、おおまかな考え方のみが示され、いわゆる「理系」人間であるぼくから見ると、とるべき対策については具体性が欠けるように思われる。

 この本には2005年11月に改訂新版が出ているので、目次のみ示す。かなり新しい項目が加えられているので、これも読むべきかも知れない。

2005年11月発行の新版目次(○は新しい項目)

 環境問題を倫理学で解決できるだろうか—未来にかかわる地球規模の正義
○人間中心主義と人間非中心主義との不毛な対立—実践的公共哲学としての環境倫理学
○持続可能性とは何か—開発の究極の限界
 文明と人間の原存在の意味への問い—水俣病の教訓
○環境正義の思想—環境保全と社会的平等の同時達成
○動物解放論—動物への配慮からの環境保護
○生態系と倫理学—遺伝的決定と人間の自由
○自然保護—どんな自然とどんな社会を求めるのか
 環境問題に宗教はどうかかわるか—人間中心から生命中心への“認識の枠組み”の変換
 消費者の自由と責任—対環境的に健全な社会を築くために
○京都議定書と国際協力—実効的なレジームの構築へ向けて
○環境と平和—戦争と環境破壊の悪循環

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2009年6月 7日 (日)

岡本裕一朗著『異議あり!生命・環境倫理学』

岡本裕一朗著『異議あり!生命・環境倫理学』
2002年12月20日初版発行
ナカニシヤ出版
ISBN4-88848-737-5
2600円+税

目次
 はじめに
 序章 生命と環境の「倫理学」は必要か
第I部 生命倫理学はいらない!
 第1章 中絶はいかにして可能か
  1 自分の体は自分のもの
  2 殺してもいいもの、いけないもの
 第2章 臓器移植を効率的に
  3 五人のために一人を殺す
  4 臓器は売買してもいい
 第3章 「自己決定」批判に反対!
  5 安楽死は容認できないのか
  6 インフォームド・コンセントは何のために
  7 遺伝子改造社会の生命倫理学
第II部 環境倫理学の袋小路
 第4章 人間中心主義で悪いか
  8 動物の解放!?
  9 ディープ・エコロジーと生態系主義
 第5章 予言された「人類滅亡」!?
  10 環境汚染と資源の枯渇は必然的か
  11 「豊かな社会」と「人口爆発」のジレンマ
 第6章 環境保護にはウラがある
  12 ファッションとしてのエコロジー
  13 政治としてのエコロジー

ブックガイド
おわりに
事項索引
人名索引

 生命倫理学と環境倫理学の立場から、さまざまな生命に関する問題や環境に関する問題がどのように扱われてきたかが、様々な観点から解説されている本である。著者としての「こうあるべきだ」ということは意見は書かれておらず、客観的な立場からこれまでにどのような意見が提案され、現在どのような点が問題として残っているかが書かれている、というように思われた。
 一応、第I部も第II部も読み通したが、ぼくが興味があったのは第II部に書かれていた環境問題に関することだ。
 ぼくが「環境保護」などに関して、実際に社会で行われていることに、しばしば違和感を感じることがあり、その理由がわからなかったことが多かったが、この本を読むことにより、「環境問題の歴史」などを知ることができ、有益だったと思う。
 ただし、著者は歴史と現状と問題点のみを解説しているだけで、著者の主張はほとんど書かれていないので、「どうすべきか」ということは、読者自身が考えなければいけない。
 この本は、様々な環境問題を網羅していると思われるので、この本を読んだあとで高橋敬一著『「自然との共生」というウソ』を読むと良いかもしれない。

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2009年5月31日 (日)

いつもの里山へ・・・ウラゴマダラシジミやササユリなど

 今日は明け方にはかなり激しい雨が降り、午前中は天気が悪かったのだが、午後からは晴れてきたので、いつも(と行っても、最近はご無沙汰していることが多いのだが)の里山に出かけた。晴れてはいるが北西の風がやや強く乾燥気味で、生き物の観察にはあまり良い条件ではなかった。でも、家にじっとしているよりはマシだ。
 コアオハナムグリやクロハナムグリなどが集まるイボタノキの花はとうに終わっており、ハナムグリ類は全く見られなかった。咲き残りのイボタノキの花の近くで生き物を物色していると、1頭の蝶が飛んできた。ルリシジミかウラゴマダラシジミかどちらだろうと見当を付けたのだが、止まってくれないと確認できない。運良く目の前のイボタノキの葉の上に止まり、ウラゴマダラシジミだということがわかった。ゼフィルス(ウラゴマダラシジミを含むミドリシジミの仲間の総称)を見るのは、今年はこれが初めてだ。
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 何かいないかとウロウロしていると、何かは見つかる。コナラの葉の裏で交尾しているコイチャコガネ、地面にじっとしているニホンアカガエルなど。
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20090531blog3

 この里山は、あるNPOが管理している。里山の自然を守ろう、という趣旨で運営されている。ところが、このNPOが行っている里山への手の入れ方は、どう見ても適切なものだとは思えない。
 林の下草を全部刈り取ってしまったり、特定の種の植物を管理して「保護」しようとしたり・・・・・。『「自然との共生」というウソ』でうまく説明されているように、特定の種を管理して保護しようという考え方は、ある個人なり、ある集団なりの「趣味」に過ぎない。
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 このササユリは、木製の杭に支えられている。ここからは「ササユリを保護しよう」という意思が読み取れる。しかし、杭に支えられているササユリは哀れであると同時に、これを見ていると滑稽に思えないだろうか?自然に存在するものは、たとえ傾いたり倒れたりしていても、やはり自然のままの姿の方が美しいと思えるのだが。

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2009年5月20日 (水)

本川達雄著『「長生き」が地球を滅ぼす』

本川達雄著『「長生き」が地球を滅ぼす』−−現代人の時間とエネルギー
2006年1月23日発行
阪急コミュニケーションズ
ISBN4-484-06202-X
1600円+税

目次
はじめに−−時間の見方を変えて生き方を変えよう
プロローグ 東京は悲しいところ−−ネズミなみの人口密度で暮らす異常さ
第1章 動物の時間−−動物によって時間は異なる
第2章 動物のエネルギー消費−−恐竜は意外に小食だった
第3章 エネルギー問題を考える−−日本人はゾウなみのエネルギーを使う
第4章 現代人の時間−−人はエネルギーを使って時間を早める
第5章 ヒトの寿命・現代人の寿命−−縄文人の寿命は三〇歳
第6章 老いを生きるヒント−−意味のある時間は次世代のために働くことによって生まれる
エピローグ 天国のつくり方−−ナマコに学ぶ究極の省エネ
あとがき
読書案内
付録
索引

 著者である本川達雄氏は「歌う生物学者」として知られている。NHKテレビの「ようこそ先輩」か何かの中で歌っているのを聴いたことがある。「ゾウの時間ネズミの時間〜歌う生物学」という著書があることも知っており、かすかに読んだような記憶があるが、内容はごく一部しか憶えていない。その憶えている内容とは、ゾウもネズミも死ぬまでの心臓の鼓動の数は同じだ、というところだ。
 それはともかく、『「長生き」が地球を滅ぼす』とはかなり刺激的な表題である。しかしながら、中身は期待はずれなほどマトモなことが書かれていた。表題からはもっと過激な内容を期待していたのだ。無駄に長生きしてもエネルギーを食いつぶすだけで、後の世代に負担をかけているから、無駄に長生きすることはなく早く死に、そのために良い死に方を考えることが必要だ、というようなことが書かれていることを期待していたのだ。そういう点では、表題が刺激的なだけに、がっかりした。
 全体として著者が言いたかっただろうと思われることは、第6章の「老いを生きるヒント」にまとめられている。有効に老後を過ごすには、次世代のために働くことが大切である、と。あるい意味、本当にマトモすぎる結論だ。
 自分もそのうち老人になっていくであろうが、無駄に長生きはしたくはないと思うし、もし本格的な老人になってしまっても、若い世代の人たちの役に立つような生き方をしたいものだ。少なくとも、若い世代の人たちに迷惑をかけるようなことだけはしたくない。

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2009年3月24日 (火)

高橋敬一著『「自然との共生」というウソ』

高橋敬一著『「自然との共生」というウソ』
2009年4月5日発行
祥伝社新書152
ISBN978-4-396-11152-6
760円+税

20090324blog1

目次
はじめに
1.何かおかしいと思わないか—「自然との共生」への疑問—
2.過去への郷愁—里山保全—
3.公金をつぎ込んでまで守ろうとしているものの正体—レッドレータブックとは何か—
4.では、私たちは薬を飲まないのか—農薬とは何か—
5.私たちが見つめている自然は本物の自然なのか—自然とは何か—
6.私たちはほとんど何も見てはいない—人間が持つ認識能力の限界—
7.私たちをつき動かすもの—人間は思慮深い存在か—
8.生物の宿命からの解放がもたらしたもの—人間の生存戦略—
9.なんでもんかんでも取っておきたい人ごころ—生物多様性とは何か—
10.イネも仏教も外来種—外来種への敵意—
11.人間は寒さと戦いながら生きのびてきた—地球温暖化とは何か—
12.正義の押し売りと免罪符—エコツアーとは何か—
13.最も有効な倫理基準は利益—本能と倫理—
14.お城のシャチホコ—キーストーン種とアンブレラ種—
15.いいわけなんかいくらでも—ケラマジカ—
16.ファーブルの世界—アルマス(荒地)—
17.科学者は単なるサラリーマン—科学者は聖人か—
18.種の大量絶滅—そして人間も絶滅するのだろうか—
19.心と遺伝子の対立—少子化と長寿命化—
20.「自然との共生」というウソ—自分保護としての自然保護—
21.人間の運命—未来—
あとがき

この本の半分ぐらいは既に雑誌等として出版されたものであり、その中でも多くは山の雑誌「岳人」に掲載されたものだ。しかし、ほとんどは大幅に加筆修正されている。「岳人」に掲載されたものについては既に読後感を書いているので、ここここここをご覧いだたきたい。

 「自然との共生」とは、いかにも心地よい響きの言葉だ。ところが、この本では「自然との共生」という言葉が欺瞞に満ちた言葉であるという主張が全編を通して貫かれている。人間が「自然との共生」をすることなど現実的には不可能である、と。
 この本に書かれていることは、ぼくが常々疑問に感じていることに対する回答になっていることがたくさん書かれており、うなずきながら読むことになった。
 自然を守ることは大切なことだとは思う。だがしかし、自然を守るという目的については、一見わかっているようで、考えれば考えるほどわからなくなってしまう。筆者の見解では、自分の原体験への郷愁に基づいた自己防衛本能のようなものであるということだ。そう考えると、自然を守るということについて納得できることは多い。外来種に対する考え方も同じだ。
 批判は、特定の種の保護を目指した活動家にも向けられている。活動家は正義感をもって行動し、その正義感を他人に押し付けようとする。これは「第二種の正しさ」に基づいているに過ぎないと。「第二種の正しさ」とは、ある人にとっては正しくても、他人にとっては正しいとは限らないことである。これに対して「第一種の正しさ」とは、誰が見ても正しいことである。「第一種の正しさ」として、筆者は、アゲハチョウやカブトムシが蛹の時期を経過したり、日向に洗濯物を干せば乾いたり、物を放せば落下することなどを上げて説明している。
 さらに批判は科学者に対しても向けられている。科学者=研究者は必要以上に不安を煽る。不安を煽れば研究費が得られ易いからだ。こういう批判は、研究して給料を貰っている自分にとっては耳が痛い話だが、批判に対して反論するのは難しい。
 この本の主題は「自然との共生」という点に間違いはないと思うが、書かれていることはそれに留まらず、遺伝子と人間との対立の問題にも触れ、人間はいかにして生き、いかにして死ぬべきか、という点についても触れている。
 全編を通して感じられることだが、前著「昆虫にとってコンビニとは何か」と同様に、筆者の思いを前面に押し出すのではなく、一歩引いたところから眺めたような態度で書かれている。かなり多方面に対する批判が書かれているので、この著書に書かれていることに対して反感を持つ人が多数存在するだろうことは容易に想像できるが、この筆者の一歩引いた立場に対して正当に反論するのは難しいだろうと思う。
 自然保護に関わる研究者や活動家の皆さんにも是非読んでいただきたい本だと思うし、そういう皆さんから建設的な反論が出ることを期待したいと思う。

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2009年3月 1日 (日)

イボンヌ・バスキン著/藤倉良訳「生物多様性の意味 自然は生命をどう支えているのか」

イボンヌ・バスキン著/藤倉良訳「生物多様性の意味 自然は生命をどう支えているのか」
2001年4月12日発行
ISBN4-478-87089-6
2,200円+税
ダイヤモンド社

原著
Yvonne Baskin (1997)
The Work of Nature
How the Diversity of Life Sustains Us
ISLAND PRESS, Washington D.C. in U.S.A.

訳者はしがき
本書に寄せて
序文
第1章 生命のはたらき
第2章 だれが重要なのか
第3章 生物群集の結びつき
第4章 水は生命の源
第5章 土壌の生命力
第6章 植物とその生産力
第7章 土地を形づくる力
第8章 気候と大気
第9章 それでも自然は必要か

著者であるイボンヌ・バスキンは科学ジャーナリストである。

 「生物多様性」という概念を理解したいために本書を手に取ったが、この本に書かれていることは、「生物多様性」の概念については全く説明されていなかった。原書の表題を直訳すれば「自然の働き 生命の多様性はいかにして我々を支えているのか」であるが、本書に書かれていることは原書の表題に示されていることだった。その意味では、訳書の表題は極めて不適切だと思われた。だからと言って、この本に書かれている内容が生物多様性という概念と全く無関係というわけではないが。
 この本には、これまでに科学者たちが明らかにしてきた自然のしくみについて、様々な具体例が上げながら説明されている。そして、これまでに明らかにされてきたことは、自然のしくみの極一部であり、まだまだわからないことばかりであり、将来を言明することは不可能であると結論されている。だからと言って、自然について科学者たちが明らかにしてきたことは無視すべきことではなく、我々人間が生きて行くために、自然を保全する必要がないということにはならない、としている。また、本書の全体を通して、自然がもたらしてくれるサービスについて強調されているが、それを経済的な価値に換算することの難しさについても記述されている。

 「生物多様性」という概念を知るために本書はあまり役に立たなかったが、我々人間が生きて行くために考えなければならないことを知るためには、現在までの知見を概観できるため、非常に良い生態学の教科書のようになっていると思われた。日本人の研究者が書いた保全生態学の教科書も存在するが、それには個別事例が中心になっており、全地球的な観点が乏しいため、本当の意味での保全生態学とは何かを考える上でも、本書の方が優れているように思えた。
 訳者はしがきに記されているように、この本にはたくさんの事例が引用されているが、引用文献のリストはついていない。原著では25ページにも及ぶ引用文献のリストがついているそうだが、この訳本には一切掲載されておらず、出典をあたることができない。良い内容の本であるだけに、出典を知る事ができないのは残念だ。それを知るためには原書を入手するしかない。

 訳書の表題以外にも、細かい点だが、誤訳と思われる箇所が散見されたのは残念だ。88ページには「イナゴ焼け」という言葉が出ているが、おそらく"hopper burn"のことだろうと想像した。 "glasshopper"ならバッタの仲間なので「イナゴ焼け」だが、そのような状況を作り出すのは"brown planthopper"、すなわちトビイロウンカである。だからここは「ウンカ焼け」と訳されるべきだと思う。そのほかにも、ところどころで誤訳と思われるところがあった。
 本書を読んで、外来種の問題について前に考えたときのように考えさせられたが、侵略的な外来種の場合は大きな問題が起こるので望ましくはないが、生態系の機能の保持のために外来種を導入することは、必ずしも悪くないように思われた。本書の中に、湖の機能を復活させるためにブラックバスが棲息していない湖にブラックバスを導入したことが紹介されていたのには驚いた。このことは、場所が変わればそれぞれの場所に適した操作が必要だということであり、生態系の将来を予測することがいかに難しいかを示しているものだと思われた。日本のブラックバスの問題も、感情論に走らずに、科学的に議論する必要があると思われた。自分個人的には、ブラックバスは食糧として利用したら良いと思う。

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2008年12月28日 (日)

養老孟司/池田清彦/奥本大三郎 著『虫捕る子だけが生き残る』

養老孟司/池田清彦/奥本大三郎 著
「脳化社会」の子どもたちに未来はあるのか『虫捕る子だけが生き残る』
2008年12月6日発行
小学館 101新書 014
ISBN978-4-09-825014-1
700円+税

目次
 まえがき
 第一章 虫も殺さぬ人が人を殺す−虫の世界から見た教育論
 第二章 虫が生きにくい社会にしたのは誰か−虫の世界から見た環境論
 終章  虫が栄える国を、子どもたちに残そう−虫と共栄する未来へ
 あとがき

 12月6日の日本鱗翅学会東海支部第139回例会の折りに、特別講演の演者である著者の一人の池田清彦氏からも紹介があり、朝日新聞にも広告が出ていたので早く読みたいと思っていた。読むのが遅くなったのは、図書館にリクエストして、それが届くのを待っていたためだ。本代をけちろうと思っているのが主な理由というわけではなく(多少それもあるが)、面白いと思われる本は図書館買ってもらって、多くの人に読んでもらえた方が良いと考えるからだ。たかだか735円で買える本が買えないわけではない。
 本書は、著者三名による鼎談を本にしたものである。この三名による鼎談を本にしたものには『三人寄れば虫の知恵』(洋泉社)があるが、本書は同じメンバーによる鼎談が12年ぶりに実現されたものだ。
 この三人が集まれば面白くないはずがなく、実際に読んでみて、その場に居たいと思わせられる気になったのは、Zikadeさんと同じだ。しかしそれには、虫屋と自認している自分だからなのかも知れないと感じさせられる部分も多かった。明らかに誤りだと思われたり、言い過ぎだと思われたりする箇所はあちこちにあり、虫屋でない人に誤解を与えかねないと思われる部分も多々あった。特に第二章ではひどかったと思う。dantyuteiさんが批判する気持ちも理解できる。しかし、そこまで言いたい気持ちにさせられているのは、自分にはよくわかる。
 全体としては、身近な自然的存在である虫という現実的存在を通して、頭の中だけで空想した仮想的(バーチャル)な世界だけではなく、決して人間が制御しえない現実的(リアル)な世界を、五感を通して理解することを重要性を強調しようとしていることは確かだと思う。
 しかし現実問題として、自分が子どもだった頃と較べると、虫の数は明らかに少なくなり、特に街中では現実の虫に触れることすらままならないという現状では、身近なリアルな世界を体で理解する人間が、遠からず絶滅することは容易に想像できる。リアルな世界を体で理解できなくなった人間は、やがて絶滅するだろうし、頭の中だけで考えたことで政治や経済を動かしている社会の足元は、極めて危ういものだと言えると思う。そう言った意味で、『虫捕る子だけが生き残る』という本書の表題は、内容をよく表していると思う。

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2008年8月31日 (日)

池田清彦・養老孟司 著『ほんとうの環境問題』

池田清彦・養老孟司 著『ほんとうの環境問題』

2008年3月15日発行
新潮社
ISBN978-4-10-423104-1
1,000円+税

 今朝の朝日新聞の耕論の養老孟司氏の著者の紹介の中で「近著」として紹介されていたので、早速図書館で借りてきて読んだ。単に共著と書かれていたので、誰と共著なのかわからなかったが、池田清彦氏との共著ということで、これは面白そうだ、と直感した。養老氏も池田氏もいわゆる「虫屋」であり、歯に衣着せぬ論客だからだ。

 全体は3部に分かれており、まず養老氏が『環境について、ほんとうに考えるべきこと』、次に池田氏が『環境問題の錯覚』について書き、さいごが『「環境問題」という問題』という両氏の対談という形式になっている。
 書かれていることは、二酸化炭素と地球温暖化に関する問題を中心とする環境の問題が中心である。まず、本当に地球が温暖化しているのか、とか、地球が温暖化すると本当に悪いことばかり起こるのか、などというところから疑問を呈している。論調は、二人とも「今の日本の政治家や官僚は環境問題のことを何も考えていない」というところがほぼ一貫していた。あてにならないデータにおどらされて無駄な金(税金)を使っているぐらいなら、その金を信頼できるデータをとるために回したら良い、などと至極もっともなことも書かれていた。京都議定書の承認に関しても、環境問題の本質は石油とカネの問題なのに、日本政府はそこがわかっていない、などとも書かれていた。少子化問題についても、地球環境のことをマジメに考えるなら、少子化は歓迎すべきことだ、とも書かれていた。自分のように、ある組織に所属しているような人間にはとても言えないようなホンネが書かれていて、実に痛快だった。
 霞が関のお役人や永田町の政治家の皆さんには、ぜひ読んでいただきたいと思った。
 この本の内容とは直接関係ないが、最近とみに目にしたり耳にしたりすることが多い「生物多様性」という言葉も、ぼくには怪しげな言葉に思える。この二人の考え方を聞いてみたいものだ。

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朝日新聞 耕論「どうみるエコブーム」

 昨今の「エコブーム」に対して養老孟司氏、加藤三郎氏、中野翠氏が意見を寄せている。中野氏が個人の消費の抑制に重点に置いているのに対して、養老氏は、それだけでは不十分で、政府による生産の抑制まで取り組まなければ不十分だ、という意見を述べているのが印象的だった。加藤氏の意見はその中間的なところか。ぼくは、養老氏の考えにもっとも同調できる。
 根本的な二酸化炭素排出を抑制するためには石油の生産を抑制しなければいけないことは、ぼくのような凡才にも容易に理解できる。石油が無くなれば、今の社会経済が回転しなくなることは容易に想像することができ、それによって少なくとも一時的には不便な生活を強いられることになるだろう。でもぼくは、今の社会は便利すぎるから、多少の不便はかまわないのではないかと思っている。石油がなくなって、不便になれば、また新しい知恵も出てくるだろう。そう言った意味で、今の石油高は、それはそれでぼくは悪くないと思っている。アメリカでは、石油高のおかげで無駄なスピードを出す車が減り、交通事故死者が大幅に減少しているというではないか。
 本当の低炭素消費社会を実現することは、要は、少なくとも一時的には(永遠かも知れないが)不便になるであろう社会を、我々が受け入れる覚悟ができているかどうかというところにかかっている。今の便利な社会が永遠に維持できるとは、ぼくにはとても考えられないのだ。

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