福島県のヤマトシジミに関して・追記(2012年10月16日)
前のエントリーで、ろくに論文を読みもせず、間違ったことを書いてしまったことには、少々反省している。
しかし、今になって大瀧准教授のグループがヤマトシジミの標本を集めようとしはじめたことについて、やはり腑に落ちない部分がある。メールの文面を見ると、かなり慌てている様子が感じられたので、やはり件の論文(何故か今これを書いている時点でエラーになって読めなくなっている)について多くの批判が寄せられたので、それに反論するためであろうということは想像がつく。だとすれば、世間を試そうと思っていたのではないかという考え方は的を外していたような気もする。とにかくある程度の注目を集めることによって、今後の研究費の獲得に有利になるようにと目論んだが、想定外の反響があって慌ててしまった、というところが真相のようにも思える。だとすれば、当初の計画はかなり杜撰だったとも言える。
それはともかく、福島の放射線の問題はナイーブな問題であるだけに、良心的な研究者であれば、発表にはもっと慎重であると思うし、突っ込まれることが明らかな穴があるような論文など発表しないと思う。
大瀧准教授のグループの依頼に協力する人は皆無ではないと思うので、今後大瀧グループから福島のヤマトシジミに関係した新たな論文が発表される可能性は無いわけではないと思う。どんな論文を発表するのか、注目していたいと思う。
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コメント
池田晶子が次のように言っています。
「現代史」とは言うけれど、その出来事を経験して記憶している人が生きているうちは、正確にはまだ「歴史」とは言えない。生きている人には感情がある。出来事への怒りや恨みや悲しみの心を必ず持っている。そういう個人の思い出や立場を越えて、人間全体としての歴史を考えるということは、とても難しいんだ。
科学の世界も、こうした傾向と無縁であるわけでは決してありません。「真理の探究」の中にあっても、こうした傾向を排除することはできません。人間が人間である限り不可能です。
もちろん、とてつもなく長い時間がたてば、そうした主観的な皮が剥がれて、やがて真理そのものが見えてくるのでしょうけど。
投稿: 南十字星 | 2012年10月19日 (金) 09時49分
南十字星さん、コメントいただいたのに、お返事が遅くなり申し訳ありません。
「真理」とは何か、などと考えると、とても答をだせそうには思えません。科学者も主観から逃れることはたいへん難しいことのように思えます。
投稿: Ohrwurm | 2012年10月28日 (日) 20時55分