« 梅雨入り(2011年5月27日) | トップページ | 第6回大門寄席(2011年5月29日) »

2011年5月28日 (土)

若宮健著『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』

若宮健著『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』

祥伝社新書226
ISBN978-4-396-11226-4
760円(+税)
2010年12月10日発行
215 pp.

目次
一章 なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか
二章 なぜパチンコは、廃止されねばならないのか
三章 なぜ日本は、パチンコを廃止できないのか

 よく売れている本らしいし、何となく気になる内容だったので、図書館で借りてきて読んだ。
 しかしながら、あまり面白いとは感じられなかった。書かれている内容の主題は、本の表題になっている「なぜ韓国ではパチンコを全廃できたのか」ではなく、三章の表題の「なぜ日本は、パチンコを廃止できないのか」であると感じられたし、書き方もあまり論理的ではなく、単なる感情論に過ぎないと感じられた。スラスラと読めたが、何度も同じようなことが繰り返し書かれており、せいぜい30〜40ページもあれば書けそうな内容しか書かれていないと感じられた。
 ぼくはパチンコをやらないので、パチンコのことは詳しくは知らない。しかし、パチンコ屋が儲かっていることは大体知っているので、パチンコをやれば平均的には「必ず負ける」ことぐらいは理解している。本書ではパチンコにはまって依存症になり身を滅ぼす人が多いので、それを防ぐために法律で禁止すべきだ、と主張されているが、それは余計なお節介だと思わないわけにはいかなかった。必ず負けるとわかっているものにはまる人がいけないだけである。パチンコは時間つぶしだと割り切ってやるべきである。勝とうと思ってやってはいけない。
 なぜ韓国でパチンコが全廃できたのかを、本書とは違って生態学的に考察することも可能である。日本のパチンコの歴史は長い。すでに日本の生態系の中にニッチを得てスッポリはまり込んでいる。そのようなものを「根絶」するのは極めて困難であることは容易に想像できる。パチンコという「種」のまわりには、様々な業界団体や監督官庁がいて、安定的な「生態系」を形成しているからである。これに対して韓国におけるパチンコは侵入直後の「外来種」である。まだ韓国の生態系の中に安定的なニッチを得ていなかったはずである。したがって、それを根絶するのは、安定的なニッチを得ている日本に比べれば遥かに容易であることは、想像に難くない。
 それはともかく、パチンコが日本にとって好ましいものではないという本書の主張には同意できる。パチンコは資源やエネルギーを使っているが、カネを動かしているだけで何も生産していない。資源やエネルギーを無駄に消費しているだけだと思う。法律でパチンコを禁止することはお節介だと思うが、パチンコ屋が儲からなくなるような社会になるのは悪くないことだと思う。

|

« 梅雨入り(2011年5月27日) | トップページ | 第6回大門寄席(2011年5月29日) »

コメント

僕もパチンコはやらないのでピンとこないテーマですが……パチンコといえば友人が「パチンコ屋の数を書店の数で割った数値。それがその地域の文化度を表す」なんて言っていたのを思い出しました。ジョークっぽく言っていたけど、妙に説得力を感じてしまいました。

投稿: 星谷 仁 | 2011年5月28日 (土) 12時10分

私もパチンコをやったことはありませんが、その論理でいけば音楽や美術など文化芸術活動の全てが「カネを動かしているだけで何も生産していない」ことになりますね。従って、「音楽家や芸術家が儲からなくなるような社会になるのは悪くないことだと思う」と読み替えが可能になってしまうことになります。流通業なども「物を流しているだけ」ですね。パチンコとその他の違いの論理的な説明が思いつきません。
娯楽は人間にとって重要なものだと思いますし、実学的側面の薄い自然科学は娯楽的な側面を除いてしまうと無意味ということにもなってしまいますね。「自然科学者が儲からなくなるような社会になるのは悪くないことだと思う」のですか?

投稿: 橘 | 2011年5月28日 (土) 14時45分

星谷さん、いつもコメントありがとうございます。
 パチンコ屋と本屋の関係、よくわかりませんが、本屋の数はどんどん減ってますよね。

橘さん、そういう所を突っ込まれるとは思いませんでした。
 確かにそう言われれば、芸術やパチンコの間に大した違いはなく、ぼくの好みの問題かも知れないですね。でも、音楽などの芸術や自然科学は、今でこそカネと結びついているかも知れませんけど、もともとカネとは関係なく、人間が本来持っている性質から自然発生的に出てきたもので、今でもその特徴は残っていると思います。それに対してパチンコは、カネを巻き上げることが、ただ一つの目的になっているように思えます。違うかな?????

投稿: Ohrwurm | 2011年5月28日 (土) 17時26分

横槍失礼します。

ギャンブルも人間の本能に根ざした文化です。欲得は人間の本質ともいうべき性質のひとつですから、それをもって芸術とは格が違う、とは言い切れないでしょう。

とはいえ、最近のパチンコは機械がコントロールしているそうなので、文化としては水準が低いように思います。どうせやるなら人間相手のカジノのほうが格調が高いし、勉強にもなると思うんですが。(度をすごさない限りにおいて)

投稿: 鳥居 | 2011年5月28日 (土) 20時55分

鳥居さん、お久しぶりです。
 ギャンブルと芸術では格が違うとは言いませんが、パチンコがもともとカネを動かすために生まれた(のだとぼくは理解していますが)のに対して、芸術はカネを動かすために生まれたわけではないということろは、やはり違い(格の違いではなく、出自の違い)があるように思えるのですが。
 ギャンブルに関しては、パチンコや競馬、競輪などは、平均的には必ず客が負けるという点で、ぼくは魅力を感じませんが、マージャンのように、各競技者が対等なものについては悪くないなぁ、と思います。
 まあ、いずれにしても、度を過ぎるのは望ましいこととは思いませんが。

投稿: Ohrwurm | 2011年5月28日 (土) 21時22分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 若宮健著『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』:

« 梅雨入り(2011年5月27日) | トップページ | 第6回大門寄席(2011年5月29日) »