鷲谷いづみ著『天と地と人の間で』
鷲谷いづみ著『天と地と人の間で 生態学から広がる世界』
岩波書店
ISBN4-00-024021-8
1,600円+税
2006年2月23日発行
146 pp.
目次
はじめに
・日曜日には地下鉄ではなく世田谷線
1 自然の深さ
土の力/マルハナバチの巣が終わるとき/都市の水辺と生態系の健全性/生き物のにぎわいを利用する「戦略」
・シェリーと黒豆とダーウィンと
2 人が自然を変えるとき
地雷の上の愛知万博/尾瀬とシカ/早まる春と速まる絶滅/初日への祈り/クマの棲める森/暴かれたエイリアンの強さの秘密/里魚の受難からの教訓/花粉症シーズン到来/大豆輸入がもたらす生態系の荒廃/軽視される科学—特定外来生物の政令指定
・アルバム『さくらそう』
3 生態系の未来
田んぼの生き物の将来/農業の研究と環境保全との間の溝/危うい食物連環/冷たい流血の近未来シナリオ/気候シフトと順応策/天の夢と地の恐れ—人が未来に光をみいだすために
・現場の教育力を活かす実習
おわりに
著者の鷲谷いづみ氏は保全生態学の分野の研究者としては我が国の第一人者であろう。その第一人者が岩波書店が発行する雑誌『科学』の中で連載された一般の人に向けて本音を語ったエッセイである。著者は書き下ろしの「はじめに」の項の中で以下のように語っている。
『世間では,私のような保全生態学の研究者はきわめてマイナーな存在である.生物にかかわる研究分野では,医学やバイオテクノロジーの研究者が圧倒的多数を占めている.それらに比べれば取るに足らない数の生態学研究者のなかでも,野生の動植物を研究対象にフィールドワークをする研究者は少数派である.生物多様性の保全,自然再生といった社会的な課題と関連させ,いわば社会との「間」を意識した生態学の研究をしている保全生態学の研究者は,その中でも希な存在である.
エッセイには,そのように「世にも珍しい」保全生態学の研究者の目で自然と社会を見つめたときに,感じられたこと,考えたことを素直に淡々と綴ってきたつもりである.とはいっても,その感覚の底流にあるのは,「怒濤をうつ」といってもよいほど急速に進む生態系の不健全化に対する強い危機感である.同時に,その危機感がごく一部の人々にだけしか共有されていないことへの,さらに強い危機感もある.
その思いをなんとかして伝えたいと願うとき,エッセイはたいへんありがたい表現手段である.専門的な研究の成果に関しては,数式や専門用語で綴る学術論文を表現手段として研究者社会におけるコミュニケーションを常としている私たちだが,感じたことをそのまま感性に,また,平易な理屈によって常識に訴えることを可能にするエッセイは,社会とのコミュニケーションにとってたいへんありがたい手段である.
しかし,つい肩に力がはいり,独りよがりなエッセイになってしまう危険もないとはいえない.また,華々しい映像文化全開の現代,この地味なコミュニケーション手段がどれほどの力を発揮するのか,正直いって心許ない.しかし,エッセイを綴ることは,忙しい研究者としての毎日の中で,自分自身を見つめ,感覚とこころを研ぎ澄ますよい機会でもあったような気がする.また,このような出版を通じて,読者の方々と互いの心の琴線を多少なりとも共鳴させ合うことができたとしたら,それも嬉しいことだろう.』
この中で「危機感」という言葉が使われているが、自然環境に興味を持つ多くの人にとって、近年の急激な環境の変化、在来種の衰退、外来種の繁栄を見れば、心安らかでいられないのは確かなことだと思う。おそらく鷲谷氏自身は本当に危機感と言うか、不安感を感じているのだろうと思う。しかし、鷲谷氏自身がなぜ危機感なり不安感を感じているのかという本質的な理由は、本書を読んだかぎりにおいて、鷲谷氏が自分自身で理解していないのだろうと思われた。
自分が経験してきた様々なことの中で不都合がなければ、環境の変化はない方が安心であろう。しかし、鷲谷氏自身が生まれる前から、環境は留まることなく変化してきたことは言うまでもないことである。鷲谷氏は「自然再生」という言葉を使っているが、これには極めて曖昧な意味しか持たせられないことは容易に想像できる。だれしも、自分が物心つくまでのところまでは意識を遡らせることは可能だが、それ以前のことはたとえ様々な歴史的な証拠があったとしても、実感として意識することは不可能である。本書を読めば、鷲谷氏がサクラソウなりアサザなりの再生を実行しようとしていることはわかるが、目指す到達点は、おそらく鷲谷氏が実感として意識できる風景、すなわち鷲谷氏の「心の中の原風景」でしかありえないだろうと思う。
結局本書の中では、環境の変化に対する危機感が科学的に語られているわけではなく、心情的に語られているに過ぎず、穿った見方をすれば、単に不安感を煽って研究費を獲得しようという目的に過ぎないのではないか、という見方もできないわけではないので、政治や行政に携わる人や、環境の変化に対する危機感に鈍感な人の心を動かすのは困難であろうと感じられた。
「侵略的外来種」という言葉についても定義が曖昧で、何を言っているのかわからない。在来種に対して悪い影響を与える外来種が「侵略的外来種」ということになろうが、ある非在来種が侵入する前に、その非在来種が定着して繁栄し、在来種に対して悪い影響を与えるのか、それとも定着できずに消え去ってくのか、あるいは侵入が起こったことも気付かれないまま終わってしまうのかは、事前に予測することは極めて困難である。だから、「侵略的」であるかどうかは結果論であり、「侵略的外来種」という言葉の定義はトートロジーになっていると思う。だから、科学的な文章の中では「侵略的外来種」という言葉は使うべきではないと思う。
ぼく自身の環境や生態系に対する考え方は保守的(変化が少ないのが良いと考えている)であるので、基本的な考え方としては鷲谷氏に同意できる部分も多い。例えばひとつの同意できる部分は、ある地域に現在棲息していない生物は他所からその地域に持ち込むべきではない、という点である。しかし、既に他所の地域から侵入して定着してしまったものを排除すべきだ、という考え方は、それが科学的に可能であれば同意できるが(例えば、南西諸島に侵入したウリミバエをガンマ線を照射した人工飼育のウリミバエを野外に放すことによって、交雑しても卵が孵化できないようにして野外のウリミバエの個体数を減らし、ついには根絶に成功した事例がある)、それが不可能であるとわかれば、あるいはかけるコストに見合う以上のメリットが期待できなければ、公的な資金を使って事業を行うことには無駄なことだと思う。公的な資金を使わず、そのことに同意する人が資金を出して事業を行うことには同意できる。ぼくは、セイヨウオオマルハナバチが輸入されはじめた1992年頃、輸入に反対する署名運動に同意して署名した。しかし、署名運動の甲斐無く、輸入は継続され、危惧されたとおり、セイヨウオオマルハナバチは北海道で野生化し、定着してしまった。定着してしまったということは、そこにセイヨウオオマルハナバチが入り込む生態的ニッチェに空白があったためであろうから、あるいは在来のマルハナバチよりもその生態的ニッチェにより適応的だったということであろうから、おそらく根絶は不可能だと思う。セイヨウオオマルハナバチが定着してしまったことは悔しいことだとぼくは思うが、駆除するためのコストに見合うだけのメリットが得られないとわかれば、駆除のために研究費を使うことは無駄だとも思う。我々にできることは、定着してしまった外来種を駆除することではなく、同様な新たな事例を作らないことぐらいではないかと思う。
外来種問題とは表裏一体のことだが、絶滅危惧種についても同様である。鷲谷氏の場合は、サクラソウなどが該当する。絶滅危惧種がなぜ絶滅が危惧されるようになったかと言えば、その種に適した生態的ニッチェが少なくなってきたからに違いない。人間が生活するために改変した環境は計り知れない規模である。これまでの古生物学の歴史が明らかにしてきたように、これまでに誕生した生物種の多くは既に絶滅してしまっている。つまり、生物の種には種の寿命があり永遠不滅ではない、ということである。いま目の前にある種が絶滅寸前でその絶滅を見届けることは忍びないことであるが、生物の種に寿命がある以上、それはそれで仕方がないことではないかと思う。これについても、保護するためのコストに見合うだけのメリットが期待できないのであれば、公的資金を使うのではなく(公的な研究資金に応募することを否定するわけではないが)、有志が資金を募って保護活動に充てたら良いと思う。
本書を全体的にみて、感情論が前面に出ている部分が多いように思われた(エッセイだから当たり前かも知れない)が、この分野の第一人者である鷲谷氏には、環境の保全や外来種の問題について、もっと理論的に詰めた議論をしていただくこと(専門の学術誌などでは既に理論的なことを書かれているのかも知れないが)を期待したいと思う。
外来種および生物多様性関連のエントリー
2010年5月4日 (火)アラン・バーディック著『翳りゆく楽園 外来種vs.在来種の攻防をたどる』
2010年5月8日 (土)崎尾均編『ニセアカシアの生態学─外来樹の歴史・使用・生態とその管理』
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コメント
まさにOhrwurmさんのおっしゃる通りだと思います。
多くの自然保護関係の本を読んでいて泣きたくなるのは、著者たちが自然保護という感情を徹底的に問い詰めることをしないまま、おきまりの「人類の崇高な責務」なるものを説いて、いっぱしの憂国の志士になったつもりでいることです。
自然破壊も自然保護も、実はどちらも自分保護というまったく同じ心理から生まれた双子です。まずはそこのところを、遺伝子の存在様式から理解することが必要です。
そして自分保護というものは極めて利己的なものであり、世間でもてはやされる利他的(であると考えられている)行動も、実は非情なまでの利己主義が必然的に生み出したものにすぎないことを認識すべきです。
誰もが正義の名の下に盲目になってしまうことって、これはとても恐ろしいことです(そういう時代はこれまで何度もありました)。自然保護をはじめとし、正義だとか責務だとかいう言葉が出てきたら要注意です。
まずはその運動の指導者や専門家たちの心理がいかなるものであるのかを、彼らの発言と対比させながらよーく研究することから始めるべきだと私は常々思っています。
つまりなぜ人間がそう主張するようになったのかについて、遺伝子の存在様式のレベルから理解する必要があるということです。
その詳細な作業の中から人間(生物)とは本当は何なのかが明らかになってくるでしょうし、そうした人間のあり方を否定するのではなく、そこで明らかになった事実を受け入れた上で初めて、人間と、人間社会について語れるようになるのだと私は思っています。
投稿: 南十字星 | 2010年6月 4日 (金) 15時03分
こんにちは。
私も個人としてはおおむね同意するものですが、人を突き動かすのは理ではなく感情ではなかろうか、とも思います。感情を介さない理に、いかほどの力があるものか、と。
意味のないものに意義を見出すのは、人間としては自然だと思います。
投稿: 鳥居 | 2010年6月 4日 (金) 22時15分
南十字星さん、鳥居さん、コメントありがとうございます。
鳥居さん、ぼくは南十字星さんが指摘するように、人間自らが自分自身のこと、とくに精神構造を知ることがこれからは必要だと思います。
自分の感情を押し出せば、あるいは自分の感情に基づいて行動すれば、回りがそれを理解してくれると考えるのは考え方が甘いと思います。人は個々人でそれまでの経験が違いますから、それぞれの人によって異なった受け止め方をされるでしょう。もちろん感情なり情緒なりは大切だと思いますが、その前に理を確立しておくことが感情なり情緒なりに力を与えることになると思います。
投稿: Ohrwurm | 2010年6月 5日 (土) 10時03分
感情というものは、共感してくれるに越したことはありませんが、私だってそれを周りが理解してくれるなどとは少しも思っていません。
ただ、個人をある行動に駆りだすのは、まちがいなく感情であり、それが大いに理不尽であっても、それ相応の敬意を払うべきだと思います。それこそが個性なのだから。
また、感情と同様に、「正しい理論」というものを全ての人が理解してくれるというのも甘い幻想だと思います。正論ほど愛されないものは世の中にあまりないんじゃないでしょうか。
投稿: 鳥居 | 2010年6月 5日 (土) 21時35分
鳥居さん、コメントありがとうございます。
いわゆる「正論」と「考え抜かれた理論」とは別ではないかと思います。正論を振りかざしても、理解を得られるどころか、逆に反感を買うことも多いと思います。
ぼくが鷲谷氏に期待するのは、鷲谷氏が理詰めで考えたことを、一般の人に対して分かり易く語ってくれることです。少なくとも、本書のなかで書かれていることは、感情論に終わっている部分が(ぼくが期待するほどには)少なくなかったように感じられました。
投稿: Ohrwurm | 2010年6月 6日 (日) 13時27分
生態学というのはあまりかえりみられない学問なだけに、感情論で突きすすんで上滑りになってしまうのは避けねばなりません。
ただ、理詰めで正しさを追っていって人々を納得させたところで、最終的に何ができるかと言ったら、?だと思うんです。
それよりかは、間違ってても何か行動に移している人の方が私には尊く感じられる、ということです(間違いにも限度というものはありますが)。
学者さんとしては感情を語るのはタブーなんでしょうが、エッセイなら書きたいこと書いても許されるんじゃ?と鷲谷さんも思っているんだかいないんだか。
投稿: 鳥居 | 2010年6月 6日 (日) 22時02分
鳥居さん、またまたコメントありがとうございます。
最初の点はまさにそのとおりだと思いますし、二番目の点もそのとおりかも知れないと思います。三番目について、手弁当で保全活動を実践されている人はぼくも偉いと思いますが、その人が持っている「原風景」を知ることができないぼくは、その行動に入り込む気持ちにはなかなかなれません。四番目についてもなかなか難しいところですが、その分野の第一人者と目される人物が気軽に感情を書いてしまうことが好ましいとは言えないようにも思えます。もっとも、鷲谷先生もそこまで切羽詰まった気持ちになっておられるのかも知れませんが。
投稿: Ohrwurm | 2010年6月 6日 (日) 22時24分
私はいつも思うんですが、物事を論じるにあたってみんながほんの数行で済ませている出発点、つまり膨大な理論の出発点となる誰もが当たり前だと思っている公理のような感情、そういう疑うことができないとされている感情自体をよーく突き詰めて検証し直すことが本当は一番大切なんじゃないんでしょうか。
ほとんどすべての本はここのところは自明のごとくスルーして、あとは微に入り細を穿つ方法論だとか哲学を延々と述べているばかりです。でも一番大切なのはその出発点の公理(感情)を、遺伝子の存在様式レベルから、一度よーく疑ってみることなんじゃないでしょうか。
人は常識で物事をしつこく論じることは好き(めちゃくちゃ楽ですから)なんですが、常識自体をしつこく考えることは本能的に嫌います(足元の土台全体が崩れる恐れがありますから)。
たとえば世間では国家を論じることが盛んですが、そもそも人間にとって国家は本質的な存在ではないと私は思っています。職業についても同様です。でも世間一般の常識では国家や職業は人間存在の大前提です(こう言うとすぐに、「国家や職業がないと生きていけないじゃないか!」ってむきになって言い出す人もいますが)。
科学がもてはやされる一方で、いま、生物としての人間がどんどん見えなくなりつつあります。科学はあくまでも本能を満たすための手段(あるいは童話の補強剤)であるとしか考えられていません。科学が暴き出す、人間本能が抱く理想を全面否定するような真実の方はあっさり無視されてしまいます。
自然保護についても、自然保護が自然破壊と同じ心理(自分保護の心理)から出発していることを肝に銘じておかないと、私たちはいつまでたっても同じ所をぐるぐると回り続けるばかりです。
とはいうものの、人間が人間である限り、人は誰がなんと言おうと、様々な素材を織り上げて、自分に都合の良い、自分が心地よく感じる理論を作り上げ、生涯それを補強し続けていくことしかできません。私はそれがいけないと言っているのではなく、そういう自分をクールに見つめているもう一人の自分もあって欲しいと思っているだけです。
投稿: 南十字星 | 2010年6月 7日 (月) 07時48分
南十字星さん、貴重なコメントありがとうございます。
最後の点ですが、理論を作り上げるだけではなく、実際に人間が行っていることは、改変されていく自然を憂えて、生物多様性や外来種がどうのこうのと言っている一方で、現実には、環境を改変しながら、自然から切り離された自分にとって心地よい環境を整備し、外国から輸入されたものを食べたり使ったりしているわけです。鷲谷先生だって、環境保全活動を行っている一方で、普段は都市生活をされているのだと想像しています。これを直ちに悪いというわけではありませんが、なぜそのようにダブルスタンダードになっていることが議論の対象になることがないのか、ということは考えなければいけないことだと思います。
いまのところぼくにできることは、何気ない普段のぼくの生活は少なからず環境に対して負荷を与え、それが様々な問題のもとになっているのだ、ということを意識しておくということぐらいでしょうか?ぼくはあと30年ぐらいしか生きられないでしょうから、自分にとっては30年先まで考えれば、さしあたって問題は無いわけで、そのように楽観的に生きる方が楽しいかも知れませんが、「やはりそれではまずいんだ」と言っているもう一人の自分がいます。
投稿: Ohrwurm | 2010年6月 8日 (火) 19時34分