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2010年5月14日 (金)

池田清彦著『昆虫のパンセ』(新装版)

池田清彦著『昆虫のパンセ』(新装版)

青土社
ISBN4-7917-5812-9
1,800円+税
2000年5月30日発行
217 pp.

初版は1992年刊

目次
1 人はなぜ虫を集めるのか
2 謎々としての多様性
3 原型という夢
4 観念に擬態した虫
5 マニアという名の罪人
6 虫喰う人も好きずき
7 空飛ぶ虫たち
8 虫に未来はあるか
9 ギガンテア最期の日々
10 虫たちの恋
11 ファーブルと彼の虫たち
12 虫狂いの頃
あとがき

 5年ぐらい前にも読んだが、構造主義生物学をおぼろげながら理解できるようになった今、もう一度読んでみるのも良いかと思って再読した。
 著者の池田氏は構造主義生物学を掲げる生物学者であるが、いわゆる昆虫マニアでもある。ぼくもマニアとまで言えるかどうかはわからないが、少なくとも昆虫愛好者であることは間違いないので、本書に収められている虫を題材とした12編のエッセイのいずれも面白く読むことができた。また、以前読んだ時には、ぼくはネオダーウィニズム以外をよく理解していなかったので気が付かなかったが、随所にネオダーウィニズムに対する批判が散りばめられていて、なるほど、と思わされた。
 擬態は生物学として扱うには面白い題材である。擬態のメカニズムについては、例えば大崎直太氏がベーツ型の擬態がなぜ雌の一部にだけ出現するのか、ということを明らかにするために様々な実験をして、データに基づいて論考しているように、ネオダーウィニズムで説明できる部分は多々ある。コノハチョウが枯葉に擬態するような隠蔽型の擬態も、それなりに説明できる。しかし、池田氏による「観念に擬態した虫」のオチでは、龍という想像上の動物、すなわち人間による観念に擬態した虫は何のために擬態したのだろうか、と書いている。さすがにこれをネオダーウィニズムで説明するのは困難だろうと思う。
 「マニアという名の罪人」は池田氏のリバタリアニズムに満ちた論調で書かれている。昆虫マニアはマイノリティーである。昆虫マニアを自然破壊の原因だと決めつけて、本当の犯人(例えば開発業者など)に対しては何も言わないマスコミ、という構造は、マジョリティーによるマイノリティーの差別であると断じている。本当にもっともなことだと思うが、マスコミはマイノリティーのことなど何も気にしていないので、池田氏がこんな本でいくら叫んでも、この構造は変わらないだろうな、と思わざるをえないところが悲しい。
 「ギガンテア最期の日々」に書かれていることは、多くの昆虫愛好者が同様の感情を持ったのではないかと思う。毎年楽しみにしていた昆虫採集地があるとき突然無くなってしまったときの感情(=喪失感)は、昆虫愛好者以外にはなかなか実感してもらえないだろうと想像するが、自分の経験と重ね合わせると様々な思い出が蘇ってくる。
 「虫狂いの頃」に描かれている虫屋(=池田氏自身)の生態はただただ面白い。自分も若かったころは、回りを省みず、ただ虫のことだけ考えて行動していたことがあるが、ここでは池田氏が結婚して子どもをもってからもかなり無茶をしていたことが描かれている。
 本書全体を通して、たわいのない本だと言ってしまえばそれまでであるが、随所に池田氏らしさ(=アンチ・ネオダーウィニズム、リバタリアニズム)が溢れていて面白い。まだ読んでいない虫屋は少ないと思うが、まだ読んでいないなら今すぐ読むべし。

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