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2010年5月 8日 (土)

崎尾均編『ニセアカシアの生態学─外来樹の歴史・使用・生態とその管理』

崎尾均編『ニセアカシアの生態学─外来樹の歴史・使用・生態とその管理』
文一総合出版
ISBN978-4-8299-1073-3
3,990円
2009年4月3日発行
320 pp.

目次
はじめに 今、なぜ、ニセアカシアが問題となっているのか?(崎尾均)
第1部 ニセアカシアの利用の歴史
第1章 ニセアカシアによる治山・砂防緑化(前河正昭)
第2章 「アカシア」香る町─小坂鉱山煙害地における緑化(蒔田明史・田村浩喜)
第3章 蜜源植物としてのニセアカシア(中村純)
第4章 養蜂業におけるニセアカシア林の利用の実態(中村純)
第5章 ニセアカシアの木材利用について─長野県から発信するこだわりのフローリング(久保田淳)
第2部 ニセアカシアの生態
第6章 河川敷におけるニセアカシアの分布拡大に果たす種子の役割(小山浩正・高橋文)
第7章 ニセアカシアの種子発芽特性(真坂一彦・山田健四)
第8章 増水による攪乱と外来種ニセアカシアの発芽定着─荒川での研究事例─(福田真由子)
第9章 海岸マツ林に広がるニセアカシア─秋田県夕日の松原での研究例より(蒔田明史・星崎和彦・高田克彦・三嶋賢太郎・田村浩喜)
第10章 ニセアカシアの光合成能力(小池孝良・森本淳子・崔東壽)
第11章 ニセアカシアの萌芽力(崎尾均・川西基博)
第12章 マイクロサテライトマーカーが明かすニセアカシアの繁殖特性(練春蘭・木村恵・崎尾均・寳月岱造)
第13章 ニセアカシアの侵入が渓流生態系に与える影響─腐食連鎖の視点から(河内香織)
第14章 ニセアカシア人工林に出現した植物の多様性(真坂一彦・山田健四)
第15章 ニセアカシアのアレロパシー(藤井義晴・石川恵理・浦口晋平)
第3部 ニセアカシアの管理
第16章 広域を対象としたニセアカシア林の分布把握と分布要因(山田健四・真坂一彦)
第17章 多摩川におけるニセアカシア林の構造と防除対策(星野義延)
第18章 渓畔域におけるニセアカシアの除去(崎尾均)
第19章 ニセアカシアの除去(小山泰弘)
第20章 ニセアカシア海岸林の推移(八神徳彦)
おわりに ニセアカシア林をどのように扱うか?(崎尾均)
執筆者一覧/索引

 外来種であり有用植物でもあるニセアカシアに関する総合的な総説および論文集である。
 ミツバチの蜜源や有用材としての利用などの有用性を持ちながら、別の一面として侵略的外来種としても捉えられているニセアカシアについて、それぞれの側面からのデータが提供されている。それぞれ章ごとに筆者が異なるが、それぞれの筆者の立ち位置が大きく異なることがわかり(ある著者はニセアカシアを排除すべきものとして見ているし、ある著者は有効に利用していけば良いのではないかと見ている)、一冊の書籍としては統一性を欠くが、それが種としてのニセアカシアが置かれた位置なのだろうと思う。
 感想としては、「外来種だから排除すべき」という考え方は現実的ではないと思うし、ニセアカシアの特性を理解して有効に利用するというのが妥当なところではないかと思ったし、本書にはそのための基礎的なデータも少なからず示されていると思う。
 第9章では、海岸のクロマツが人工的に植栽されたものであることが書かれていたのは、ぼくにとっては新しい知見だった。クロマツは自然植生だと思っていた。在来種であるクロマツを人工的に植えることと、在来種ではないニセアカシアを人工的に植えることは、もともと自生地ではないところに人工的に植えるという点においては全く差がないわけであるから、ニセアカシアを敵視することはおかしいと思う。
 ぼくが子どものころにはニセアカシアは既に身近な植物だったから、ぼくがニセアカシアを外来種だと意識できないからこのように思うのだろうか?

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コメント

津市周辺では,僕が子供の頃,今から40年くらい前は見なかった植物です.今では河川敷に非常に大きな群落をつくるようになりました.本来そこにあるべき植生は成立せず,一面のニセアカシア群落になっているのをみると,やはり排除すべき植物だと僕は思います.僕が好きな昆虫の種数もそこがニセアカシア群落になってしまうとものすごく貧弱になってしまっています.それは本来のしばしば洪水によって撹乱される河川敷のファウナとはずいぶんことなったものです.たしかに今のようになってしまったら,排除は現実的でないと思います.とはいえ,心情的にこの植物を暖かい眼でみることはできません.

砂浜海岸のクロマツの植栽についても非常に苦々しく思っていますが,ニセアカシア,というのはそれよりはるかに「侵略的な」植物だ,と思います.

投稿: ぱきた | 2010年5月 8日 (土) 16時19分

ぱきたさん、こんにちは。
 やはりぼくの場合、物心ついた頃から見たことのあるものを、外来種だから、といってそれを排除すべしというふうには気持ちが動きません。ぼくの心の中では在来種ですから。やはり心が動くのは、いままであった(居た)ものが無くなってしまった喪失感を感じたときだと思います。だから動植物の保全活動をされている人の気持ちはよくわかります。近所の林が伐られて宅地になっていくのを見て、やりきれない気持ちになりました。でも、ぼくのようにあちこち転勤で動いていると、新しい場所に転居してくる前のことは実感として感じられませんので、見たことのないものに対して、ぼく自身は行動を起こす気持ちにはなりません。
 「侵略的」というのも、何を根拠にしているのか理解できない場合が多いです。一部の人間の都合によって「侵略的」と決めつけられているような気がします。

投稿: Ohrwurm | 2010年5月 8日 (土) 21時48分

こんばんは.

なんだか場荒らし的なコメントしてすみません.
僕にとっては,昔は違う植物が生え,動物がいたところが,この植物におきかわっているとやはり,「喪失感」を感じます.
アメリカザリガニが入ってしまった池も,クロマツ植林されたS海岸もそう.僕自身アメザリは,物心ついたときは「自然の一部」として接していたわけですが,それの侵入定着によって他の生き物がいなくなっていたのだ!と気づいた時点で,親しい感情は全くなくなりました.

それはそうとこのブログにしばしば登場されるTさんと,今日初めて電話でお話する機会がありました.氏の著作の1ファンとして感激しました.

投稿: ぱきた | 2010年5月 8日 (土) 23時22分

ぱきたさん、再びコメントありがとうございます。
 喪失感はTさんの言うところの「郷愁」だと思います。それは良い悪いには関係のないことで、人間が本質的に持っている感覚なのだと思います。でも、森や林を潰して平気でいられるのも人間なんですよね。経済価値が唯一の基準としか考えられなくなってしまうほど脳が異常に発達してしまったという事実も受け止めなければいけません。それを踏まえた上で考えなければいけないのが外来種問題だと思います。

投稿: Ohrwurm | 2010年5月 9日 (日) 09時08分

こんにちは。

外来種の問題は奥が深いですね。

その土地本来の生態系を守るため排除するべきだ、という理屈は理解できるんですが、その「本来の生態系」という中にも、かつて外来種だった生物が相当まじってるんですよね。そこのとこの線引きはどうなのかな?ていう疑問がまずあって。

感情的に嫌いというのは私もあります。でもそれだけで済ましちゃいけない問題のようにも感じます。

投稿: 鳥居 | 2010年5月11日 (火) 22時40分

鳥居さん、コメントありがとうございます。
 ぼくは「外来種だから」という考え方は実用的ではないと感じています。人間にとって問題だと思われている生物は、外来種だけではなくシカやイノシシなどの在来種だとされているものもあるからです。
 その生態系なり景観を、将来どのようにしたいのか、というビジョンが必要ではないかと思われます。外来種排除原理主義者には、その点が欠けているように思えます。
 本書は、様々な視点から書かれているので、参考になるところもあると思います。

投稿: Ohrwurm | 2010年5月12日 (水) 06時58分

 私はニセアカシアもアメリカザリガニも大好きです! だって彼らに囲まれて育ったんですから! 私の体全体が「好きっ!」って言ってます。
 自然保護問題にしても環境問題にしても、そういう人間の心のあり方を素直に受け入れることから始めたらいいんじゃないでしょうか。
 でないと、教科書的優等生になろうとして矛盾に陥り、苦しむことになってしまわないでしょうか。
 まずは人間であることが意味するものを正面から見つめ、受け入れ、そのプロセスの中で見えてくるものこそがもっとも重要だって、私はいつも思っています。

投稿: 南十字星 | 2010年5月12日 (水) 08時55分

南十字星さん、コメントありがとうございました。
 アメリカザリガニもそうですね。ぼくが物心ついたときに既に回りに普通にしましたし。
 外来種が定着してしまったら根絶は無理でしょうから、もうそれはそれで仕方が無いことにして、これからどうするかを考える方が実りがありそうに思えます。そのような割り切りは必要ではないかと思います。
 もちろん、まだ入ってきていないものを入れないための努力をすることは当然必要だと思います。

投稿: Ohrwurm | 2010年5月12日 (水) 20時26分

 以下はあくまでも私自身のことをかえりみての発言なんですが・・・。
 私自身つねに、オチを「努力しなくてはいけない」というところに落としてせいせいした顔をし、自分自身は無数の権利(子どもを作る権利、長生きをする権利、安心安全な生活を送る権利などなど)を盾に大きな痛みを回避しながら、何の疑問もなく途上国の犠牲の上にあぐらをかく贅沢な生活へと戻り、ありとあらゆる親しい外来物(生物、無生物、概念など)の中にどっぷり浸かって疑問も抱かず、エコ運動に関わったりエコグッズを買うことで正義の人の地位を確保しながら他人に指示だけすればすべてがすむと思っています。そして私自身、できればいつまでもそういう生活を自分が続けたいと思っています。
 様々な技術開発や法の整備よりもなによりも、こうした人間性の限界を正面から見つめること、要するに人間自身について直視しないまま、人々はいったい何を議論しているのだろう、と私はいつも思います。もちろん人間が人間であり続けようとする限り、こうした態度を改めることはできません。
人間が人間であり続ける限り、どこにも解決策などない問題ってたくさんあります。「どこかに必ず解決策がある」という考え方は本能的なものですが、それを疑うことはとても重要なことです。人間が生物として持つ限界をやっきになって否定するのではなく、「よし」として正面から受け入れる勇気と、それによって作られる覚悟とが、私はなによりも必要だと思っています。
 でもこんなことを言うとすぐに、「どこにも解決策が示されていない!」って怒り出す人がたくさんいます。解決策なんかどこにもない、って言ってるのに・・・。解決策がないことを受け入れない限り私たちは一歩も前には進めないのに・・・。これってまるで、自分は死なないことにして、必死に死から目を逸らして生きているところに、「あんたは必ず死ぬ」って言われて逆上するのとおんなじです。
 以上のことをはっきりと認識した上で(権利だとか義務だとか責務だとかいう高圧的な言葉からはなれた上で)、子作りなり、長生きなり、経済成長なり、開発なり、自然保護運動なりを展開するならば、好きなだけやればいいです。それこそ人間が人間である証なのですから。

投稿: 南十字星 | 2010年5月13日 (木) 10時12分

南十字星さん、こんにちは。
 このようなコメントをいただいて思い出したのですが、このブログにも正しい解答のない問題について解答を求められたことがありました。おそらく、まだ若い生態学を志している大学院生さんだと思います。
 この世の中には正しい正解の無い問題がいっぱいあることが徐々にわかってきているわけですから、これまでに明らかにされた情報に基づいて、個々人が考えなければいけないことはいっぱいあるでしょう。それを自分で考えもしないで他人任せにしてしまうことは無責任だと思います。
 その大学院生さんと思われる人は、何事にもすべて正しい解答があるものと思い込んでいるようでした。まずは、自分自身のことを見極めないといけないですね。
 南十字星さん、長文のコメントに感謝いたします。

投稿: Ohrwurm | 2010年5月13日 (木) 22時43分

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