池田清彦著『分類という思想』
池田清彦著『分類という思想』
新潮選書
ISBN4-10-600429-1
980円
1992年11月15日発行
228 pp.
目次
はじめに
第一章 名づけることと分類
1 なまえとフェティシズム
2 コトバは思考をしばる
動物と植物/生物と無生物/男と女/資本主義と社会主義
3 コトバは何を指すのか?
固有名/一般名
第二章 何をどう分類するのか
1 客観的な分類方法はあるのか
2 生物分類の歴史
分類学の祖アリストテレス/神の秩序を表そうとしたリンネ/リンネを裏切った分類学者たち/ラマルクの進化分類学とキュヴィエの構造主義分類学/現代の生物学者の分類手続き
3 みにくいアヒルの子の定理
第三章 進化論が分類学に与えた衝撃
1 現代分類学の三つの学派
客観的な分類を追求した表形学派/進化論が産んだ進化分類学派と分岐分類学派
2 進化のプロセスにもとづく系統分類
系統分類を支える二つの基準−分岐と交叉/系統分類では説明できない類似という現象
3 リンネの呪縛から逃れられない系統分類
分岐図というニセの系統樹/進化分類学派の折衷案/系統はどうやって推定するのか/分岐分類学派の破綻
第四章 新しい分類学を求めて
1 DNAから見た系統学
2 構造主義分類学の提唱
原型と科学的実在性/分類群の階層性
第五章 まとめ
あとがき
参考文献
1992年の出版だから、もうずいぶん古い本である。書かれていることが難しいので、読むのに難儀したし、十分に理解できたとは思えない。
著者の池田氏は構造主義生物学を看板にしている人だから、本書に書かれていることは、構造主義分類学が他の分類学、例えば数量分類学(表形学派)、進化分類学(総合分類学)、分岐分類学などより優れていることが主張されており、他の分類学の問題点が細かく指摘されている。
それはともかく、「分類する」ということは、人間が認識でき、コトバとして表すことができてこそ可能なことであるということだから(本書にはそういうことが何度も繰り返して書かれている)、人間が認識できないようなことは、頭の中で想像し理屈で考える以外に方法はない。
分岐分類学の場合、例えば三中信宏さんなんかがそうだが、「種は存在しない」ということを繰り返して主張している。ましてや高次分類群をや、である。
でも、自然物を見ているぼくとしては、例えばアゲハチョウの仲間はアゲハチョウの仲間として認識できるし、タマムシの仲間はタマムシの仲間として認識できるから、属とか科とかいう高次分類群が自然分類群として定義できるに違いないと思える。
本書を読んだ限り(ただし、十分に理解したとは思えないが)、分岐分類学などより、構造主義分類学の方が、ぼくにとっては説得力があるように思える。生物の進化の歴史というのはあるだろうし、ある種から別の種が分岐したのは確かだろうが、だからと言って、DNAの塩基配列に基づいて推定された系統樹が、真の生物の進化の歴史を反映したとも言い切れないとも思うし(真の歴史を反映した場合が多いとは思うが)、そのように推定された系統樹は、分類するということとは話が別だと思うのは、池田氏の主張と同じである。
それにしても、分類学というは一見古くさそうに思えるが、突っ込みどころが満載の領域だと思わずにはいられない。
しかし、この手の本は読むのに骨が折れる。ふぅ。
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