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2010年2月13日 (土)

冬季オリンピックで思い出すこと

 今日(現地時間では12日)、バンクーバーオリンピックが開幕した。冬季オリンピックというと色々なことが思い出される。
 1972年の札幌大会。ぼくは小学生だった。まだ何も考えずに、日本選手を応援していた。この時代は、まだ昆虫採集に対する規制は今ほど多くなかったと思う。
 1998年の長野大会。このときは、大会の開催に反対する考え方を持っていた。
 スキーのアルペン競技の会場となった白馬村は、ギフチョウの有名な産地だったが、その採集は条例によって規制されていた。「環境の保護」という名目である。ところが、オリンピックの開催となると、この「環境の保護」はどうでもよくなってしまったらしく、昆虫採集の規制までして保護していた場所を地形を改変してまでもその会場としてしまった。それが、ぼくが大会の開催に反対する最大の理由だ。今、現地のギフチョウがどのような状態になっているか知らないが、おそらく採集の規制の条例は残っているのではないかと想像している。ギフチョウが居るかどうかに関係なく。
 ギフチョウなど、居るところにはたくさん居るので、白馬村のギフチョウにこだわることもあまりないのだが(とは言え、白馬村のギフチョウには「イエローバンド」と呼ばれている、縁毛が全部白色になる変異型が高い頻度で出現する)、昆虫採集家を閉め出してきた場所を、環境を改変してまで(環境を改変することは、単に採集することよりもギフチョウに大して大きなインパクトを与える)オリンピックの会場に提供した措置には矛盾を感じざるをえない。
 以来、オリンピックに対しては褪めた目で見るようになってしまった。
 オリンピックはHomo sapiensの単なるお遊びに過ぎない。別にオリンピックがあろうな無かろうが、Homo sapiensの生存にとって何の意味も無いし、オリンピックで選手がいくら活躍しようが、それを見ている人の体力や技術が向上するわけではない。日本でテレビを見ていても、日本人中心で競技の様子が放映されるだけだし、国別のメダルの数を競って、つまらないナショナリズムを感じるだけだ。
 単なるお遊びであると思われることを行うために環境に対して悪い影響を与えることを行うには、それなりの理由付けが必要だと思うが、これまで正当な理由付けは行われてこなかったように思える。何が何でも環境を保全する、という環境原理主義に走るつもりはないが、環境を改変するためには、正当な理由付けが必要だと思う。オリンピックというだけでは、正当な理由にはならないと思う。
 昆虫採集を行うことは、それ自体、環境に対して多少のインパクトを与えるが、昆虫採集を行うことによって得られる情報は少なくない。自然のことを知ろうと思ったら、実際に調べてみなくてはわからないし、昆虫採集はそのために役立っていると思う。
 と書いてみたところで、昆虫採集を楽しみとする人間は所詮マイノリティーである。マイノリティーの意見は、今の世の中では配慮されることはほとんどない。
 と、こんなことを考えながら、今年のバンクーバーの会場も、(会場になる場所の環境の改変については何も報道されないので想像するだけだが)無駄な自然破壊が行われて作られているのだろうな、と思いながら褪めた目で見ている。

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コメント

スキー場についてはよく分かります。広島にもスキー場がたくさんありますし、その周辺が保護区になっていたり。スキー場が先だったのか、保護区が先だったのか分かりませんが、スキー場を作った免罪符の意味もあるのかもしれません。あるいはスキー場も作ったけれど、保護もしていますよ、という意味もあるかもしれません。昆虫採集を禁じても困るのは虫好きの人だけで、土木建設業者も農林業の人達も困りません。それを知っているので、私もそんな場所での真剣な保護などと聞いても、斜に構えてしまうわけです。そういえば某T氏の本にもそんなことが書いてあったかと。

オリンピックは、選手は純粋に一生懸命ですし言わば4年に一回の国際学会みたいなもの。それは意味があると思います。でも、それだけではない。開催の裏でスポーツとは関係のないところで得をする人達がいるのですね。

私はそんなことを知った上で、彼らの「研究発表」を楽しみます。私はナショナリズムは嫌ですが、せいぜいクラス対抗の競技大会と同じような意味で、応援もします。気に入った人なら、外国の選手にすら。世界中で(勿論それどころではない人達も多いことは分かりますが)、多くの人達が一つ事に注目する2週間というのも悪くはないと思っています。

投稿: Zikade | 2010年2月13日 (土) 22時23分

Zikadeさん、こんにちは。
 そうですね。スポーツとは関係のないところで得をする人達がいますね。選手たちは一所懸命だろうと思うのですが、そういうところで白けてしまいます。
 ところで、報道によれば、バンクーバーでも、「オリンピックに金を使うぐらいなら、その金を困っている人達に回せ」と主張する人達がデモを起こしているようですね。オリンピックに使うお金が必要以上に大きくなると(どの程度が必要不可欠なのかわかりませんが)、そういう人達が出てくるのも自然のなりゆきだと思います。
 開会式だけ見ても、あんなにお金やエネルギーを使用せず、もっとシンプルにやっても良いんじゃないか、と思いました。

投稿: Ohrwurm | 2010年2月14日 (日) 08時45分

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