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2009年6月

2009年6月25日 (木)

2009年ニイニイゼミ初鳴き

 今日の午後15:45頃、職場の前のケヤキ並木からニイニイゼミの鳴き声が聞こえてくるのに気が付いた。いよいよ夏だ。

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2009年6月24日 (水)

2009年アマガエル新成体初見

 今日は週に1回の定期調査で職場の外に出た。
 調査地の1か所で成体になったばかりの小さいニホンアマガエルを見つけた。今年の初見だ。
 職場のすぐ近くにも田圃があるので、職場の中でも見られるはずなのだが、今年は発生が遅れているらしく、職場の中ではまだ見ていない。
 小さいアマガエルがたくさん見られるようになると、オオキベリアオゴミムシが出てくるはずなので、それを楽しみにしている。
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2009年6月22日 (月)

2009年キリギリス初鳴き

 今日の午前中は雷も鳴り、かなり激しい雨も降ったが、お昼頃には雨も上がり、舗装された場所が乾くほどになった。
 午後から畑に調査に出たら、先週収穫したキャベツの跡地からキリギリスの鳴き声が聞こえた。今年の初鳴きだ。
 キリギリスと言えば、やはり真夏の暑い日に鳴くという印象が強いので、夏も近いということなのだろう。ニイニイゼミが鳴き始めるのももうすぐかも知れない。

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2009年6月21日 (日)

レイチェル・カーソン著(青樹簗一訳)『沈黙の春』

レイチェル・カーソン著(青樹簗一訳)『沈黙の春』
1987年5月15日発行
新潮社
ISBN4-10-519701-0
2000円(本体1942円)

 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』('Silent Spring', 1962)と言えば、誰でもその書名ぐらいは知っているものだと思っていたが、どうやらそうではないらしいことがわかってきた。それはぼくにとっては驚きだ。
 ぼくにとっては、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』に書かれている大まかな内容は知っていても実際には読んでいない、という状態だった。
 最近、環境の倫理に関する本を濫読しているが、そのなかで、やはり実際に読まなければいけないと思って、図書館で借りてきて読んだ。
 『沈黙の春』では、有機塩素系殺虫剤に代表される化学合成農薬が一気に広がった時代に、その使用に関して警鐘を鳴らしたことにより、主に化学工業界から大きな批判を浴びせられた本である。
 全編を通して、様々な生物がいなくなったとか、野生生物の体内に農薬が蓄積しているとかいうデータにもとづいて、冷静沈着に、これでもか、これでもか、というほどしつこいまでの書き方がされているのに驚かされた。
 最初に書かれていることだが、カーソンは有機合成農薬のすべてがいけないとは一切かかれておらず、過度の使用(濫用)がいけないと言っている。本当に必要な時には使うのもやむを得ない、という立場だ。当時は、アメリカ合衆国農務省も化学合成農薬一辺倒の考え方であり、それに対しても鋭い批判が重ねられている。確かに、その頃に書かれた、ヘプタクロールやディルドリンなどの有機塩素系殺虫剤の害虫に対する影響を調べた論文を読んだことがあったが、この本を読んで、その背景を理解することになったが、それに気付いていなかったとは、これまで自分の読みが甘かったとしか言えない。
 現在新しく登場する化学合成農薬は、皆殺し的な農薬はほとんどなくなり、人間や家畜や天敵に影響の小さいものが大半を占めるようになってきた。このような本が書かれたのが今から50年近く前のことであるが、やっとカーソンの描く理想に近づいた、というところであるように思える。とは言え、まだまだ古い時代に開発された皆殺し的な農薬が使用されている現状は、さらに改善すべきだと思う。
 この本には、翻訳者である青樹簗一氏による30ページ以上にも及ぶ解説が付けられている。青樹簗一がどんな人なのかという紹介が書かれていないのだが、当時の社会情勢やアメリカや日本における研究の状況なども詳しく書かれており、本書が書かれた背景を理解する大きな助けになっている。1950年代はじめまでは天敵の研究もかなり行われていたのに、一気に化学合成農薬一辺倒に傾いてしまったのには、化学工業業界と合衆国政府の間に、何か政治的な取引が存在していたことは疑いないと思われる。
 『沈黙の春』の書名は知っていても読んだことがない、という人はおそらく多いだろうが(ついこの前のぼくのように)、一度読んでみる価値の高い本であると思う。

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沖縄物産展@津松菱2009

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 今日はお昼から、津松菱百貨店で開催されている沖縄物産展に出かけた。とにかく、沖縄の匂いが恋しいのだ。このところ毎年開催されているようで、何年か前にも出かけ、いろいろ買い込んで散財したような記憶がある。
 まずは腹ごしらえ。沖縄そば。沖縄本島本部のそば屋の出店だ。麺も汁も具も美味しかった。
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 次に買い物。アンガマの面に目が止まると、そこは石垣島の「ひるぎ工房」のブース。石垣島に住んでいたことを話しはじめると、いろいろ話がはずみ、箸を買うことになった。値段を引いてもらった上に、「売り物にならないものだから」とキズ物もオマケにつけてもらう。
 島唄ライブとエイサーの時間になると、その会場へ。濱盛重則さんと「まいふなエイサー」の面々。あとから聞いたら、いずれも名古屋で活動しているとのことだったが、八重山訛りのトークと勇ましいエイサーの踊りを見ていたら、涙が出そうになってきた。やっぱり沖縄というか石垣島というかに恋をしているのだろうと思う。ああ、石垣島に帰りたい。
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 最後はブルーシールのアイスクリームで締めて会場を後にした。
 ひとときではあったが沖縄の空気に触れることができたことは良かったことだと思う。

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安濃川の河原のヤナギが無くなっていた

 図書館に行った帰り道のこと、最近は広い道をバイクを走らせることが多かったのだが、今日は久しぶりに細い裏道を通った。このとき、安濃川にかかる細い橋を渡るのだが、そのときに違和感を感じた。
 よく見てみると、去年の夏にヤナギグンバイが大発生していたヤナギが無くなっているのだ。
 河川管理者にとっては邪魔なヤナギだったかも知れないが、ヤナギグンバイやコムラサキが発生していたヤナギが無くなったのは寂しい。
 これも「郷愁」の感覚なのだろう。

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2009年6月20日 (土)

2009年・今年はヤマモモが豊作のようだ

 仕事なら別だが、名古屋に行こうと思うと、二つ以上の用事がなければ行こうという気にはなかなかならない。今日は、二つの用事ができたので、名古屋に行くことにした。結果的にはそれ以上の用事をこなしたのだが。
 一つの用事は、昨日開店した「マジックスパイス名古屋店」でスープカレーを食べること。もう一つはアマチュア無線家仲間の集まり。偶然だが、この両方の場所が同じ大須だった。
 午前11過ぎの「快速みえ」に乗るために10時半過ぎに家を出て、例の樹液がいっぱい出ているクヌギをチェックし、偕楽公園の中を通って津駅に向かった。偕楽公園の中に入って目についたのが、地面に落ちているヤマモモの実。偕楽公園のヤマモモには去年は全く実がつかなかっただが、上を見上げると、今年はほどほどに実がついており、ちょうど食べごろになっているものも多い。偕楽公園にヤマモモがあるのに気付いたのは一昨年のことだったが、一昨年と較べると、今年はやや不作のようにも思える。しかし、十分に豊作と言えるほどだと思う。
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 名古屋に着いてからはあちこちで用を足し、大須に着いたのは午後1時をかなり過ぎていた。「マジックスパイス」はすぐに目についた。
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 確かこの場所は、以前はトルコ風のケバブか何かを売っている店だあった場所ではないかと思う。ケバブは繁盛していなかったのだろうか。時間的にはちょうどお昼どきに入った客が店を出る時間帯かと思ったが、まさにそのとおりで、店に入ったときにはほとんど席が埋まっていたが、次々と席が空いてきた。最初はカウンターに案内されたが、狭かったのでテーブル席に移らせてもらった。
 注文したのは「マジックスパイス」の基本である「チキン」で、辛さは「涅槃」。7段階のちょうど中間の辛さだ。3月の札幌でも4月の東京でも「チキン」だったので、店の間の比較ができる。辛さを「涅槃」にしたのは札幌と同じで、1段階下げた東京では辛さがまるで足りなかったので、やはりそれなりに辛い方が良いと思ったからだ。出てきたのはこれ。
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 東京で食べたときには野菜が少ないと思ったのだが、札幌で食べたとき以上に野菜が入っている感じだ。チキンが隠れていて見えないが、チキンの大きさも東京より明らかに大きく、札幌より大きいのではないかと思えた。
 食べてみてビックリ。何と予想以上に辛いのだ。スープをすすろうと口の中に入れると、むせて咳が出る。明らかに札幌の「涅槃」より辛いと思われた。しかし、「マジックスパイス」の場合、「辛い≒美味しい」なので不満は無い。しかし、胃袋は熱くなるし、明日の朝、トイレに座るときが心配だ。
 ま、とにかく、名古屋の「マジックスパイス」を味わうことができて良かった。満足度は「名古屋≧札幌>東京」である。そうしょっちゅう名古屋に行くわけではないが、名古屋の中では、大須は行く機会が多い場所なので、大須に行く楽しみができた。
 次に向かったのは沖縄物産を扱っている「にらい」。「わしたポーク」を探したのだが、「スパム」とか「チューリップ」ブランドのものしか無い。予定の時間までにはまだ余裕があるので、上前津から地下鉄に乗って栄の「わしたショップ」に向かった。ところが「わしたショップ」の前に行くと、シャッターが閉じていて店が休みのように見えた。近くまで行ってみると、「移転しました」とのこと。「中日ビル地下1階」と書かれているのだが、名古屋の地理には詳しくないので、「中日ビル」がどこにあるのかわからない。しかし、ぐるっと見渡すと、東の方に「中日ビル」を発見できた。何と、今降りたばかりの地下鉄の駅の乗り場からすぐ近くだ。知らなかったから仕方がないが、ずいぶん無駄に歩かされてしまった。ここでは間違いなく「わしたポーク」を買い求めることができた。そのあとは、もう一度地下鉄に乗って上前津へ。いつも名古屋に出たときには使うのだが、こういうこともあろうかと思って「ドニチエコきっぷ」金600円也を買っておいたのは正解だった。
 このあとは、上前津駅近くの大須の某所で開催されたアマチュア無線家の集まりに出席。顔を合わせるのは初めての人ばかりだが、有意義な時間を過ごすことができた。
 会が終わったのは夕方6時過ぎ。18:30発の「快速みえ」に乗れるかどうか微妙な時間。上前津駅に向かうと金山方面が18:17発、栄方面が18:16発だったので、栄経由の方が早いと思って栄に出た。栄では18:21発の高畑行き。乗り換えに便利なように、最後部の車輌に乗り、名古屋駅に着くと、改札口目指してダッシュした。途中で息切れがしたが、何とか「快速みえ」に間に合い、遅くならない時間に帰宅することができた。
 津駅を下りると小雨が降っていたが、傘をさすほどではなかった。例の樹液が出ているクヌギを見ると、フクラスズメと大変小さいコクワガタが来ていた。残念ながら、モンスズメバチはいなかった。

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2009年6月19日 (金)

クヌギの樹液にて・・・ボクトウガの幼虫とスズメバチ

 夕食後、今年はじめてのクワガタ目的の観察に出かけた。いずれも自宅の近所だ。
 最初の場所は、我が家から津駅に向かう途中にある。ちょっと前に昼間に通りかかった時、樹液が醗酵する良い匂いがしていたので、期待できる場所だった。
 まず見つかったのはスズメバチ。よく見てみると、そのすぐ先にボクトウガの幼虫が頭を出しているのに気が付いた。ボクトウガの幼虫が樹皮を齧って、そこから滲み出した樹液が醗酵し、ボクトウガの幼虫が醗酵した樹液に集まる昆虫を捕獲して食べるのを発見したのは、香川大学の市川俊英先生だが、その発表を初めて聞いたときには大変驚いた。その驚異的な事実も、こんな身近な場所で行われているわけで、それに気付くか気付かないか、というところで観察能力が問われるように思う。
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 場所を変えて、我が家の裏の崖の上にあるクヌギに向かったが、そのクヌギには樹液が出ておらずダメだったが、その近くのコナラの木から僅かに樹液が出ていたらしい。近づくとポトッと何か音がしたので下を探すと、見つかったのはヒラタクワガタだった。もちろん、今年の初物だ。小さいコクワガタもいた。
 さらに別の場所を回り、最初の場所に戻ると、スズメバチはいなくなり、ボクトウガの幼虫がもっと外まで出てきていた。スズメバチがいたときには、多少は遠慮していたのかも知れない。ここまで出てきていると、けっこう大きな個体だと実感できる。
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 家に持ち帰ったヒラタクワガタを測定したら、体長は46mmあった。それほど大きいわけではないが、まあまあヒラタクワガタらしい体形をしている。
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2009年6月14日 (日)

加藤尚武編『環境と倫理 自然と人間の共生を求めて』

加藤尚武編『環境と倫理 自然と人間の共生を求めて』
1998年8月20日発行
有斐閣
ISBN4-641-12056-0
1,600円+税

目次
第1章 環境問題を倫理学で解決できるだろうか−未来に関わる地球規模の正義(加藤尚武)
1 環境問題とは何か 環境問題の基本的構造
2 意思決定方式の重点移動 倫理から法律へ
3 自然の歴史性 自然を守れという判断の根拠
4 環境倫理学の三つの主張 地球の有限性,世代間倫理,生物保護
5 環境に対する伝統的宗教の責任 環境問題による半分原理としての正義の問い直し
6 環境を守るための正義 環境的正義の現実化の条件
第2章 文明と人間の原存在の意味への問い—水俣病の教訓(丸山徳次)
1 「公害から環境問題へ」? 「公害」概念の再評価
2 水俣病の原因企業と原因究明 政府見解までの12年
3 水俣病の原因とは何か? 人間無視と差別の仕組み
4 認定制度の問題性と司法・政治システムの限界 水俣病は終わらない
5 水俣病事件の責任とは何か 病根としてのシステム社会
第3章 化石燃料の枯渇と環境破壊とどちらが先にくるか 廃棄の限界と資源の限界(河宮信郎)
1 都市・工業文明の二重の限界 資源枯渇と環境荒廃
2 成長システムの猛威 「成長」は一時的・局所的にのみ可能
3 成長主義転換の必然性 物的欲望・需要は飽和する
4 環境としての水循環と資源としての水 更新性資源の根源が枯渇しつつある
5 現実に進行している温暖化 現実の継続も許されない
6 資源の世代間配分と価格メカニズム
7 科学技術の役割と限界
第4章 アマミノクロウサギに代わって訴訟 自然物も権利をもつか(山村恒年・関根孝道)
1 日本での自然の権利訴訟 自然物の原告適格
2 自然の権利の考え方はどのようにしてできてきたか 環境倫理と自然の権利
3 アメリカにおける自然の権利訴訟の展開 アメリカの判例の変遷
4 日本における自然の権利論の展開 環境権から自然の権利へ
5 自然の権利をどのように考えるか 権利の配分からみら自然の権利
6 まとめ 自然の権利の類型と性格
第5章 「未来世代に対する倫理」は成立するか 世代間の公正の問題(蔵田伸雄)
1 「未来世代に対する倫理」としての環境倫理 未来世代に対する義務と責任
2 「未来世代に対する倫理」の根拠は何か さまざまな倫理的根拠とその問題点
3 「未来世代に対する倫理」の困難 相互関係の不成立
4 選択の結果の想像と因果関係の認識 私たちの選択と未来
第6章 環境正義の思想 環境保全と社会的平等の同時達成(戸田清)
1 便益と被害の不平等な分配 金持ちが環境を壊し,貧乏人が被害を受ける
2 資本主義,ソ連型「社会主義」,南北問題 企業や国家への力の集中が招く環境破壊
3 アメリカにおける「環境人種差別」と「環境主義」 有色人種や低所得層にも広がる環境運動
4 手続きの民主化 民衆の自治と情報公開は環境保全の必要条件
5 「動物の権利」と「自然の権利」 他の生物との共生が環境保全の土台
第7章 生物多様性保護の倫理 「土地倫理」再考(谷本光男)
1 生物多様性の保護と人間中心主義 環境主義者の異議申立て
2 「土地倫理」の思想 倫理的ホーリズム
3 [土地倫理]の問題点 自然主義的誤謬と環境ファシズム
4 結びにかえて 価値の焦点
第8章 自然保護は何をめざすのか 保全/保存論争(須藤自由児)
1 保全と保存 ピンショーとミューア−−−最初の論争
2 保全/保存の定義 自然の権利,内在的価値
3 個体主義的保存論 テーラーとレーガン
4 全体論的保存論 キャリコットの生態系中心主義とその修正
5 自然・環境の保護と社会的公正の実現 「人間と自然との対立」という図式を超えて
第9章 環境問題に宗教はどうかかわるか 人間中心から生命中心への<認識の枠組み>の変換(間瀬啓允)
1 自然に対する人間のかかわり 自然倫理の基盤となるもの
2 日本人の自然観 仏道と結びついた日本人の自然理解
3 西欧の自然観 逸脱した人間中心の自然理解
4 共生の思想 育成されるべき市民意識
5 仏教経済学 非物質的な価値の尊重
6 自然との霊的結合 生命中心の自然理解
第10章 消費者の自由と責任 対環境的に健全な社会を築くために(本田裕志)
1 環境問題における個人の自由と責任 自由社会にひそむ環境破壊の根
2 消費生活を制約する条件 環境倫理のさまざまな立場から
3 大量消費生活の克服のために私たちは何をすべきか 対環境的に責任ある生活様式をめざして
4 個人の自由の新しいあり方 対環境的に健全な社会の具体像
事項索引
人名索引

コラム
熊沢蕃山と安藤昌益(加藤尚武)
レイチェル・カーソン(神遠恵子)
ハンス・ヨナス(盛永審一郎)
エマソンとソローと自然の教育(鵜木奎治郎)
ジョン・ミューア(岡島成行)
環境芸術は自然の治癒をめざす(伊東多佳子)


 「生物多様性」あるいは「環境」を守るとはどういうことか、ということについて、自分なりの理解をするために読んだ。この本もこの前に読んだ岡本裕一朗著『異議あり!生命・環境倫理学』と同様に、問題点がわかりやすく整理されているという点では読み易かったと思うが、一部を除けば結論のようなことは書かれていない。まあ、ここから先は自分で考えてみなさい、ということだろうと思うが、まさにそのとおりで、各章の終わりには「演習問題」が出されている。参考文献も多数上げられているので、環境問題について考える基礎として本書が読まれることが想定されていると思う。
 多数の著者から、さまざまな方向から環境問題への考え方が示されているので幅広く環境問題を理解するのには適した書物だと思われる。
 最後の章の「消費者の自由と責任」には、かなり具体的な問題点の指摘があり、著者の考え方が一番強く出されていると思った。普段の生活では、消費することと環境の問題を考えることはなかったが(とは言っても、この行為は本当に環境にとって適切な行為だろうか、と自問することはときどきあったが)、この章を読むことにより、これまでモヤモヤとしてあまり理解できていなかった部分か明確になったように思える。
 しかし、全体的に見れば、倫理学者といわれる「文系」の人が書いた文章であり、おおまかな考え方のみが示され、いわゆる「理系」人間であるぼくから見ると、とるべき対策については具体性が欠けるように思われる。

 この本には2005年11月に改訂新版が出ているので、目次のみ示す。かなり新しい項目が加えられているので、これも読むべきかも知れない。

2005年11月発行の新版目次(○は新しい項目)

 環境問題を倫理学で解決できるだろうか—未来にかかわる地球規模の正義
○人間中心主義と人間非中心主義との不毛な対立—実践的公共哲学としての環境倫理学
○持続可能性とは何か—開発の究極の限界
 文明と人間の原存在の意味への問い—水俣病の教訓
○環境正義の思想—環境保全と社会的平等の同時達成
○動物解放論—動物への配慮からの環境保護
○生態系と倫理学—遺伝的決定と人間の自由
○自然保護—どんな自然とどんな社会を求めるのか
 環境問題に宗教はどうかかわるか—人間中心から生命中心への“認識の枠組み”の変換
 消費者の自由と責任—対環境的に健全な社会を築くために
○京都議定書と国際協力—実効的なレジームの構築へ向けて
○環境と平和—戦争と環境破壊の悪循環

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2009年6月 9日 (火)

2009年梅雨入り

 今日は朝からどんよりと曇っていて、雨こそ降らなかったが梅雨のような天気だと思っていたら、気象台から「梅雨入りしたもよう」との発表。
 職場への行き帰りの途中には麦畑がたくさんあり、収穫も始まった。麦秋である。
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2009年6月 7日 (日)

岡本裕一朗著『異議あり!生命・環境倫理学』

岡本裕一朗著『異議あり!生命・環境倫理学』
2002年12月20日初版発行
ナカニシヤ出版
ISBN4-88848-737-5
2600円+税

目次
 はじめに
 序章 生命と環境の「倫理学」は必要か
第I部 生命倫理学はいらない!
 第1章 中絶はいかにして可能か
  1 自分の体は自分のもの
  2 殺してもいいもの、いけないもの
 第2章 臓器移植を効率的に
  3 五人のために一人を殺す
  4 臓器は売買してもいい
 第3章 「自己決定」批判に反対!
  5 安楽死は容認できないのか
  6 インフォームド・コンセントは何のために
  7 遺伝子改造社会の生命倫理学
第II部 環境倫理学の袋小路
 第4章 人間中心主義で悪いか
  8 動物の解放!?
  9 ディープ・エコロジーと生態系主義
 第5章 予言された「人類滅亡」!?
  10 環境汚染と資源の枯渇は必然的か
  11 「豊かな社会」と「人口爆発」のジレンマ
 第6章 環境保護にはウラがある
  12 ファッションとしてのエコロジー
  13 政治としてのエコロジー

ブックガイド
おわりに
事項索引
人名索引

 生命倫理学と環境倫理学の立場から、さまざまな生命に関する問題や環境に関する問題がどのように扱われてきたかが、様々な観点から解説されている本である。著者としての「こうあるべきだ」ということは意見は書かれておらず、客観的な立場からこれまでにどのような意見が提案され、現在どのような点が問題として残っているかが書かれている、というように思われた。
 一応、第I部も第II部も読み通したが、ぼくが興味があったのは第II部に書かれていた環境問題に関することだ。
 ぼくが「環境保護」などに関して、実際に社会で行われていることに、しばしば違和感を感じることがあり、その理由がわからなかったことが多かったが、この本を読むことにより、「環境問題の歴史」などを知ることができ、有益だったと思う。
 ただし、著者は歴史と現状と問題点のみを解説しているだけで、著者の主張はほとんど書かれていないので、「どうすべきか」ということは、読者自身が考えなければいけない。
 この本は、様々な環境問題を網羅していると思われるので、この本を読んだあとで高橋敬一著『「自然との共生」というウソ』を読むと良いかもしれない。

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2009年6月 6日 (土)

出張のあとで・・・初めて国立科学博物館へ

 昨日は職場である研究所が主催する某プロジェクト研究の成果発表会である研究会が東京で開催された。今日は休日なので、東京に泊まって、これまで「行きたい!行きたい!」と思いながら果たせていなかった国立科学博物館に行くことにした。
 上野駅の公園口を出ると、すぐ前が東京文化会館で、その北隣が国立西洋美術館だ。国立西洋美術館では「ルーブル展」が開催されており、入館を待つ長蛇の人の列ができていた。さすが東京である。人が多い!
 国立西洋美術館の入館を待つ人の列を見ながら歩くと国立西洋美術館の裏手にあるのが国立科学博物館だ。こちらは人はまばらだった。これを見ただけでも、日本人の科学への興味の低さを実感できる。
 国立科学博物館の建物は風格のあるものだった。
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 内部は奇麗に改装されているが、建物そのものは歴史を感じさせる荘厳なものだった。
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 この風格のある建物は地下1階、地上3階建ての「日本館」で、その奥にある「地球館」は地下3階、地上3階建ての比較的新しい建物だった。「地球館」3階から「日本館」を見るとこんな感じ。
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 国立科学博物館を訪れるのは初めてだが、さすがに「国立」というだけあって規模は大きく、とても1日ですべてを観ることは不可能のように思われた。とにかく、自分が特に興味を持っている自然環境と天文に関するところを重点的に観て、その他はざっと流して全体像を把握できるように努めた。
 入館した時刻は開館直後だったので人もまばらだったが、徐々に人が増えてきて、やはり東京は人が多いと感じさせられた。昼食は館内のレストランで食べたが、ちょっと遅めに時間を外したつもりだったにもかかわらず30分ほども待たされた。100食限定、という言葉に釣られて「オムハヤシ」を食べたのだが、ちゃんとしたレストランと較べれば、遥かに凡庸な味だった。700円という値段ではそんなものかも知れない。
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 展示を観て気になることがひとつあった。学名が問題になっているナナホシキンカメムシとハラアカナナホシキンカメムシのことだが、「日本館」に展示されていたこの2種の学名が、図鑑に掲載されているものとは逆になっていた。ぼくもこの扱いが正しいと思うのだが、ちゃんと論文で訂正されたのかどうかは不明のままだ。この展示の責任は国立科学博物館のT部長に違いないと思うので、一度質問してみたいと思う。
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 最後にミュージアムショップで少し買い物をして、午後2時半頃に館を後にした。中身もかなり濃いものだったので、肉体的にも気分的にも疲れを感じた。
 そのあとは秋葉原に出て、月に1回開催されているアマチュア無線家の懇親会に出席した。もちろん、この集まりに出るのは初めてのことだ。ネット上で名前(コールサイン)だけを知っている人に直接お会いすることができ、直接情報を交換することができ、楽しい時間を過ごすことができた。
 この会合が行われているのは秋葉原駅ビルに隣接する電波会館内の「炭火珈琲庵 古炉奈」という喫茶店の「会議室」だが、この店が今月中旬に閉店することになり、来月からは場所を変えて行われることのことだ。「炭火珈琲庵 古炉奈」はぼくが結婚したばかりの頃、妻と二人で一度だけ入ったことがあり、秋葉原の喧噪の中にありながら、落ち着いた雰囲気で美味しいコーヒーが飲めるオアシスのような場所だと感じたのだが、閉店するというのは大変残念なことだ。会合に出席するひとは席が予約されていたので問題なかったのだが、一般の人は入店待ちの列を作っていた。3階まで登る階段の1階まで列ができていて驚いた。閉店前にもう一度入っておこうという人が多いのだろうか?

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