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2009年3月24日 (火)

高橋敬一著『「自然との共生」というウソ』

高橋敬一著『「自然との共生」というウソ』
2009年4月5日発行
祥伝社新書152
ISBN978-4-396-11152-6
760円+税

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目次
はじめに
1.何かおかしいと思わないか—「自然との共生」への疑問—
2.過去への郷愁—里山保全—
3.公金をつぎ込んでまで守ろうとしているものの正体—レッドレータブックとは何か—
4.では、私たちは薬を飲まないのか—農薬とは何か—
5.私たちが見つめている自然は本物の自然なのか—自然とは何か—
6.私たちはほとんど何も見てはいない—人間が持つ認識能力の限界—
7.私たちをつき動かすもの—人間は思慮深い存在か—
8.生物の宿命からの解放がもたらしたもの—人間の生存戦略—
9.なんでもんかんでも取っておきたい人ごころ—生物多様性とは何か—
10.イネも仏教も外来種—外来種への敵意—
11.人間は寒さと戦いながら生きのびてきた—地球温暖化とは何か—
12.正義の押し売りと免罪符—エコツアーとは何か—
13.最も有効な倫理基準は利益—本能と倫理—
14.お城のシャチホコ—キーストーン種とアンブレラ種—
15.いいわけなんかいくらでも—ケラマジカ—
16.ファーブルの世界—アルマス(荒地)—
17.科学者は単なるサラリーマン—科学者は聖人か—
18.種の大量絶滅—そして人間も絶滅するのだろうか—
19.心と遺伝子の対立—少子化と長寿命化—
20.「自然との共生」というウソ—自分保護としての自然保護—
21.人間の運命—未来—
あとがき

この本の半分ぐらいは既に雑誌等として出版されたものであり、その中でも多くは山の雑誌「岳人」に掲載されたものだ。しかし、ほとんどは大幅に加筆修正されている。「岳人」に掲載されたものについては既に読後感を書いているので、ここここここをご覧いだたきたい。

 「自然との共生」とは、いかにも心地よい響きの言葉だ。ところが、この本では「自然との共生」という言葉が欺瞞に満ちた言葉であるという主張が全編を通して貫かれている。人間が「自然との共生」をすることなど現実的には不可能である、と。
 この本に書かれていることは、ぼくが常々疑問に感じていることに対する回答になっていることがたくさん書かれており、うなずきながら読むことになった。
 自然を守ることは大切なことだとは思う。だがしかし、自然を守るという目的については、一見わかっているようで、考えれば考えるほどわからなくなってしまう。筆者の見解では、自分の原体験への郷愁に基づいた自己防衛本能のようなものであるということだ。そう考えると、自然を守るということについて納得できることは多い。外来種に対する考え方も同じだ。
 批判は、特定の種の保護を目指した活動家にも向けられている。活動家は正義感をもって行動し、その正義感を他人に押し付けようとする。これは「第二種の正しさ」に基づいているに過ぎないと。「第二種の正しさ」とは、ある人にとっては正しくても、他人にとっては正しいとは限らないことである。これに対して「第一種の正しさ」とは、誰が見ても正しいことである。「第一種の正しさ」として、筆者は、アゲハチョウやカブトムシが蛹の時期を経過したり、日向に洗濯物を干せば乾いたり、物を放せば落下することなどを上げて説明している。
 さらに批判は科学者に対しても向けられている。科学者=研究者は必要以上に不安を煽る。不安を煽れば研究費が得られ易いからだ。こういう批判は、研究して給料を貰っている自分にとっては耳が痛い話だが、批判に対して反論するのは難しい。
 この本の主題は「自然との共生」という点に間違いはないと思うが、書かれていることはそれに留まらず、遺伝子と人間との対立の問題にも触れ、人間はいかにして生き、いかにして死ぬべきか、という点についても触れている。
 全編を通して感じられることだが、前著「昆虫にとってコンビニとは何か」と同様に、筆者の思いを前面に押し出すのではなく、一歩引いたところから眺めたような態度で書かれている。かなり多方面に対する批判が書かれているので、この著書に書かれていることに対して反感を持つ人が多数存在するだろうことは容易に想像できるが、この筆者の一歩引いた立場に対して正当に反論するのは難しいだろうと思う。
 自然保護に関わる研究者や活動家の皆さんにも是非読んでいただきたい本だと思うし、そういう皆さんから建設的な反論が出ることを期待したいと思う。

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コメント

目次を見ただけでも、著者はとても客観的だと感心させられます。日頃の人間の考え方の多くがかたよっている、と気づかされますね。おもしろそう。

投稿: でんでんむし | 2009年3月25日 (水) 11時51分

でんさん、こんにちは。
 数日中には書店に並ぶことと思いますので、是非読んでみてください。図書館に買ってもらっても良いと思います。

投稿: Ohrwurm | 2009年3月25日 (水) 21時39分

そもそもタイトルにある「自然との共生」という表現、僕も初めて聞いた時におかしいと思いました。愛知万博のテーマとして、愛知県博覧会協会が掲げたのを聞いて、首をひねったものです。

「共生」って発想は、「自然」を人間ごときと同格に見ている訳で、それって変じゃない?と感じたのです。自然の中で生きながらえているのが人間なのですから。

投稿: でんでんむjし | 2009年3月27日 (金) 03時15分

でんさん、確かにそうですね。指摘されるまで気が付きませんでしたが、人間がそもそも自然と共生するという概念自体、ありそうにない話ですね。

投稿: Ohrwurm | 2009年3月27日 (金) 07時07分

Ohrwurm様、どうもです。

面白そうな高橋さんの本の紹介ありがとうございます。早速取り寄せて購入したいと思います。自分のやっている仕事にも結びつくようなことがいろいろ出ているように思うので、心して読みたいと思います。

レッドリスト種と外来種は今や私の業界の主流となっています。これらを無視しては調査は成り立たなくなっています。私のいる多摩地区ではアカホシゴマダラが侵入しているせいで、冬季のオオムラサキ越冬幼虫調査の際に、いままでのオオムラサキとゴマダラチョウに加えてアカホシゴマダラの越冬幼虫にも注意する必要があり大変です。2月に多摩丘陵のオオムラサキ調査を行った際に、オオムラサキは見つからなかったのですが、多くのゴマダラチョウに混じってアカホシゴマダラの越冬幼虫がやはり見つかりました!しかもゴマダラチョウと全く同じエノキの葉裏で見つかりました。これからアカホシゴマダラがどこまで広がっていくのか気になります。そのうち3種の混生地が増えていくかもしれません。

投稿: ケンセイ | 2009年3月30日 (月) 09時39分

ケンセイさん、コメントありがとうございます。
 レッドリスト種についても外来種についても、冷静な目で見て考察されています。現場に関わっている人から反発が出そうなことも書かれています。だからこそ読んでいただきたいと思っています。

投稿: Ohrwurm | 2009年3月30日 (月) 17時32分

『「自然との共生」というウソ』のご紹介、ありがとうございます。

最近出版されたこの種のタイトルの書を何冊か(何系統か)読んでいたので、もし、書店でこの書を見かけても、Ohrwurmさんの紹介がなければ、閲読熱意は惹起されなかったと思います(^_^;)

本書を読んで新鮮だった指摘がひとつあります。導入ともなっている、渡瀬遊水地、マーシャル諸島のビキニ環礁やチェルノブイリでの自然の復活について「(そのワケは)単にその一帯から人間がいなくなたため」という点です。

著者は自然保護、里山保全運動家がたんなる「自分保護」の動機に根ざしていることに気づかずに、政策や行政、その他関係する人々の公益を毀損している・・・といったペシミスティックな立論をしていますが、まあほとんどその通り・・・としても、多少はそうではない面、少し楽観的に考えている人もいるのではないかな・・・と、σ(^-^)は考えています。

農家の人たちが、農薬漬けだったことを反省し、多少の収量の減少や農作業の負担増を認容したうえで、農薬仕様の時期や量を必要最小限度にし、そのぶん、アヒルやヘビ、カエル、野鳥などが跋扈することに期待する・・・そういう考えも少なからずあるわけです。
ハイブリッドカーやエコキュートなども(これは養老・池田共著本でも言及されていますが)研究開発、製造行程、廃棄まで考えてエコかどうか疑わしいとか、原子力発電が必要量に応じて敏感に運転調整するのが難しいのをムダにしないため、廉価販売しているだけ・・とか、奨励金まで出して代替えさせた中古車が排ガス装置など取り外されて発展途上国で元気に走っている・・など、確かに自分エゴ、製品のみのエゴ、企業エゴ、地域エゴ、一国エゴ、エゴだらけですが、人間は自分を守ろう・自分を増やそう・・・というエゴなDNAの乗っかった遺伝子に支配されているだけではなく、「利他的な本能」があることを指摘するような生態学的なアプローチもありますから・・・・。

》現場に関わっている人から反発が出そうなことも書かれています。だからこそ読んでいただきたいと思っています。

そうなんですね。ただ、反発を強くするか、「百も承知」とはいうのですが、なかなか「共生」するに至りません(^^ゞ 社会心理学的には「認知的不協和」といって、タイトル見ただけで手に取ろうともしない場合がほとんどです。

あと、最近、某受験産業の進路指導アドバイスやっている人から聞いたはなし。「環境保護」は入試の小論文や読解でよく取り上げられるテーマですが、この種の××のウソみないな、チョットひねった視点からの出題は有力国立大学で「ふつう」なんだとか。


著者の今のお仕事はなにですか?


投稿: こけた | 2009年4月 1日 (水) 13時19分

こけたさん、コメントありがとうございました。
 「××のウソ」というタイトルは、本当は著者の意に沿ったものではなく、編集者の意向によるものだと著者から聞きました。おそらく、このような表題の本はたくさんあり、その中にはつまらない本も多いから、という理由ではないかと勝手に想像しています。
 コメントいただいたことに対してぼくが返答できるわけではありませんが、著者にはこのブログを読んでいただいているはずですので、著者には喜んでいただいているのではないかと思います。著者は恥ずかしがり屋なので、コメントはいただけないかも知れませんが。
 著者について、ぼくも全てを知っているわけではありません。でも、少なくとも、組織に所属していないことだけは確かです。でないと、ここまで自由に考えを述べることはできないと思います。

投稿: Ohrwurm | 2009年4月 1日 (水) 22時40分

「野田俊作の補正項」に書評が掲載されました。
http://jalsha.cside8.com/diary/2009/04/17.html

投稿: Ohrwurm | 2009年4月18日 (土) 11時15分

外来生物のことを勉強しているもので一つ、二つ質問があるのですが。
著者は仏教や工業製品も外来生物とみなしているようですが、無生物と生物を外来生物問題の文脈で同一のものとして扱える論理的根拠はなんでしょうか?

もう一つは著者は国境など人が決めたものに縛られる理由はないと考えているようですが、それを言うなら著者の論理の説得力もなくなるのではないでしょうか。著者も人ですし。
外来生物の用語が混乱するのも池田清彦やこの著者のように何でもかんでもすぐに外来種にしたがる人たちのせいでしょうね。

投稿: | 2009年5月 4日 (月) 21時22分

梨さん、コメントありがとうございます。
 ぼくは著者ではなく、著者の友人に過ぎないので、著者が考えていることをすべて理解しているわけではありません。あえてお答えすれば、以下のようになります。
 まず、著者は仏教や工業製品のことは「外来生物」ではなく「外来種」と呼んでいると思います。
 著者は、ある個人が外来種だと認識できるものだけを「外来種」として扱っているのは論理的ではない、と言っていると思います。自分が物心ついた頃に既に存在していたものは、外来種だとは認識できませんし、それが生物であろうと、文化であろうと、それはあまり問題ではないと思います。仏教は、現代の日本人が生まれる以前に日本に渡来した「外来種」であることは歴史が明らかにしていますが、今ではしっかり日本の文化に溶け込んでいますので、誰も「外来種」であるとは認識できなくなっています。それは本当だと思います。セイタカアワダチソウは明治以降の外来種ですが、もう日本の風景に溶け込んでしまって、ある程度の年齢以下の人は、外来種だとは思っていないのではないでしょうか?
 外来種のことを勉強されるのであれば、まず一番大切なこととして「外来種とは何か?」ということを自分なりに定義し、その上で「外来種の何が問題なのか?」ということを考えられたら良いと思います。その答は梨さんご自身が見つけ出されたら良いと思います。
 自然保護の問題の件でも著者は触れていますが、標的にされる「外来種」は、我々にとって容易に認識できるものばかりです。我々が容易に認識できない外来種はいくらでもいると思います。「外来種」の問題は、そういう「人間の認識能力」の問題とも関わってきますので、そのあたりのことも論理的に考えていかないと、底の抜けた議論にしかならない危険性が高いと思います。ですから、「人間の認識能力」についても考えなければいけないと思います。
 境界の問題ですが、もちろん人間が恣意的に決めた境界もありますが、島国である日本は、物理的に大陸とは離れていますから、自然の境界ももちろんあります。「外来種」が特に騒がれているのは、日本のように、大陸から離れた島国が多いのではないでしょうか?ぼくはよく知りませんが。

投稿: Ohrwurm | 2009年5月 4日 (月) 22時31分

ご要望があったのでこちらに書いておきます。あと対応し忘れていたことも。

>> 個人的にはあらゆる学問につばをはく著者には同意できない部分が多いです。

>これは、高橋敬一氏が『「自然との共生」というウソ』の中で批判している「自分保護」の考え方ですね。

これは誤解です。そもそも僕が最初に書いたもののすぐ下に著者が文化を研究している人たちに対して侮蔑の言葉を吐いている部分を引用しています。

お答の方ですがそちらの使う外来種の定義にどういう根拠があるのか示していただけなかった以上とくに答えることもありません。というか根拠を示さぬまま恣意的な使い方をするのは同意できません。ただ、生まれたときから身近にあると誰かが指摘するまでそれが外来生物だと認識できないのかもしれませんね。

どうもお付き合いいただきありがとうございました。

投稿: | 2009年5月 6日 (水) 20時22分

梨さん、コメントありがとうございます。
 まだわかっていただけないようですね。保全生態学を勉強されているのであれば、「外来種」の定義は、梨さん、あなた自身がやらなければいけないことです。おそらくそれは誰が定義しても恣意的なものにならざるを得ないと思いますが、それは仕方がないことだと思います。

投稿: Ohrwurm | 2009年5月 6日 (水) 21時40分

外来種について問題になっているようですので、私見をごく簡単に述べさせていただきます。
①議論を行う際の立ち位置についてですが、外来種問題は生物学的問題である以前にグローバリゼーションという視点から眺めなくてはなりません。要するに大きな枠組みにおいては対象が生物であろうとなかろうと関係ありません。また、グローバリゼーションに象徴されるような事態は単に国家間のことだけとは限りません。
②グローバリゼーションを考えることは人間とはどのような性質を持つ生き物であるかをとことん考えることでもあります。少なくなってきた生物のことを議論する以前に、人間について深く考えなくてはならないということです。
③局所的な「正義」という旗印の下、高く掲げられた「心地よき理想郷」を云々するよりもまず、私たちは現在の状況をもたらした人間の性質をよく理解し、真正面から肯定し、受容しなくては前には進めません。人間理解をなおざりにしたまま正義や理想に(税)金をいくら注ぎ込んだところで、それはまさに悲劇的な喜劇に終わるだけです。

投稿: 南十字星 | 2009年5月 7日 (木) 08時57分

南十字星さん、コメントありがとうございます。
 いや、まさに、局所的な見方をしていては望ましい答えは得られないというのは本当のことだと思います。しかし、現実的には、どこまでグローバルに考えることができるか、というところに限界が見えてくるでしょうね。人間という存在は全知全能ではありませんから。

投稿: Ohrwurm | 2009年5月 7日 (木) 21時00分

Ohrwurmさん
 「望ましい答え」とは何を意味しているのかはとても重要な問題です。現生人類が誕生して以降、その分散の過程で様々な価値観が分化していきました。そしてそれぞれの価値観集団ごとに「望ましい答え」が存在してきました。じつに長い間、それでもなんら大きな、地球規模(あるいは比較的小さな地域規模でも)の問題は生じませんでした。人口の割に地球は広かったからです。けれども人間にとって(いろいろな意味で)地球が徐々に狭くなってきて、それに伴いこれまでに生まれた無数の価値観がお互いに顔をつきあわせるようになり、ぶつかりあい、いつの間にか融合しあう事態が発生してきました。現代はそうした融合(平等な分立などはありません)に伴う混乱の極みにあります。この大融合時代が終わった時点で存在する価値観が真の意味でのグローバルな価値観となり、そこで初めて「グローバルに考えること」が可能となり、「望ましい答え」がひとつに収束することになります(もちろんその価値観世界がどんな世界になるのかは分かりません)。
 グローバリゼーションは必然的にこれまで重要であると考えられてきた多くの価値観、民族、風習、生物などの絶滅(淘汰)を伴います(日本語も、そして日本人という概念もなくなるかもしれません)。あるいはこの過程の中で人間自体が滅びてしまう可能性もありますし(一瞬にして滅びるとは思いませんが)、それによって新しい大進化がスタートするかもしれません。
最大の問題は、こうした宿命的に避けがたい事態を易々と受け入れるようには、個々の生物個体(個人)はできてはいないということです。生物個体の前提はあくまでも永遠と無限であるからです(以上すべてのことが起こるのは、もちろんある物質の分子構造に依存しています)。自然保護などの問題を取り扱う際にも、以上の点をよく見据えておく必要があると私は思っています。

投稿: 南十字星 | 2009年5月 8日 (金) 11時54分

タイトルを見て惹かれ、目次を見て、まもなく図書館に返す『自然はそんなにヤワじゃない』とテーマが似ている、もしかして同じ著者?と疑い、そして、チラッと『昆虫にとってコンビニとは何か』を連想したら、後者と同じ著者と知り、納得。早速図書館に予約入れました。

『昆虫にとってコンビニとは何か』は、とても刺激的な本で、影響を受けました。本書も読むのが楽しみです。

投稿: 混沌 | 2010年3月 6日 (土) 01時06分

混沌さん、コメントありがとうございます。
 本書も『昆虫にとってコンビニとは何か』も、普通の人が気づかないような視点で書かれているところに価値があると思います。
 『自然はそんなにヤワじゃない』はまだ読んでいません。近いうちに読もうと思います。ご紹介ありがとうございました。

投稿: Ohrwurm | 2010年3月 6日 (土) 08時28分

一般民間人がいまさらながら、購入&読みました。
こちらの記事がきっかけとなったので、一応ご挨拶をば。
興味深い本のご紹介ありがとうございました。
ブログにちょろっと感想なんぞを書きました。

投稿: 星谷 仁 | 2011年3月10日 (木) 20時11分

星谷さん、こんにちは。
 ブログの記事、拝読しました。ぼくのこの記事がきっかけになって読んでいただけたとは、ここでご紹介した甲斐があったというものです。今までこの著者のような視点で自然を解釈する人がいなかったので、ぼくにとっては目から鱗が落ちるような本でした。

投稿: Ohrwurm | 2011年3月10日 (木) 20時55分

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» 「自然との共生」というウソ(高橋敬一/祥伝社新書)を読んで [星谷 仁のブログ]
前の日記の最後にちょっと触れたが、この本はOhrwurmさんのブログ【自然観察者の日常】で紹介されているのを読んで読んでみたいと思っていたもの。 《いまの日本には「自然との共生」という言葉があふれかえっている。普段は正面切って問われることもない「自然との共生」が内包する矛盾をあらためて提示し、私たち人間の真実の姿を認識しなおすことが本書の目的である。(「はじめに」より/P.4)》 という内容の本だが、読みやすく、刺激的で興味深い内容だった。 21項目のエッセイ(+はじめに&あとがき..... [続きを読む]

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