加賀野井秀一著『日本語の復権』
加賀野井秀一著『日本語の復権』
1999年7月20日発行
講談社現代新書1459
ISBN4-06-149459-7
660円+税
近頃、ことばについて気になってしまうことがしばしばある。自分で科学論文を書いたり、昆虫同好会誌の編集をしていたりしているせいもあると思う。科学論文は英語で書くことが多いが、地方の研究会誌には日本語で書くことがほとんどであるが、英語の文章表現をあまり知らないがために、日本語で論文を書く場合に、かえって日本語の難しさを感じさせられる。科学論文は明快である必要があると思うのだが、日本語で明快に客観的な事柄を表現するのは難しいと感じてしまうのだ。
そこで、図書館の新書の棚を眺めていて、たまたま目についたこの本を読んでみることにしたのだが、この本は日本語について様々な観点から利点や欠点が整理されており、それと日本人の行動様式との関連も述べられていて、大変面白かった。
とくに目から鱗が落ちたと感じたのは、「記号化」することと「記号操作」の関係についてだ。新しい事柄を書き記すには「記号化」が必要であるが、日本人は日本語として記号化すること(詞)をおろそかにして、「記号を操作すること」(辞)ばかりに精力を費やしてきて、そのために、変化が激しい現代という時代をうまく乗り越えられていないのではないか、というところなどは大変に納得させられた。
よく「日本語はあいまいな言語だ」という話は聞いたことがあり、自分もそう感じていたのだが、それが決して日本語の特質ではなく、それをうまく使いこなしてないだけだ、ということがこの本を読んでよくわかった。
著者の専門は仏文学、現代思想、言語学であり、日本語は決して専門ではない。だからこそ、ブロの日本語学者や国文学者が書けないようなこと、あるいは気付いていないようなことを書けたのではないかと思う。
ちょっと古い本ではあるが、日本語に興味を持たれた方には、ぜひ一読をお勧めしたい。
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コメント
外人さんに接することはほとんど無いのですが、国民性の違いより個人の違いの方がはるかに大きいのではないかと思っています。
日本語でも、基本的なことを守れば明解な文を書くことができると思います。文の構造を単純にし、修飾句を少なめにし、表現の繰り返しを避けること等です。
投稿: 熊80 | 2008年8月17日 (日) 07時26分
全く同感です。予備校の生徒にも同じことを言っています。
個性とか国民性とか、さらには文学性などということを云々する以前に、的確に、わかりやすい文章を書く技術と、自分の書いたものを客観視する姿勢が必要であると考えています。
商売柄、人さまの文章でも、思わず添削してしまいそうになるので、悪文という手の代物にはできるだけ近づかないようにしていたりします^_^;。
投稿: chunzi | 2008年8月17日 (日) 07時41分
みなさん、コメントありがとうございます。著者は日本語でも明快な文章は書けると主張しています。また、同時に、日本語は似たよなことを表現するのに、様々な言い方(書き方)があるので、西洋の言語と比べると表現力が豊かだとも言っています。ですから、日本語の将来は、暗いどころか明るいとも言っています。「今時の若者」の語彙の貧困さは、狭いムラ社会の中で「記号を操作すること」ばかりに気をとられて、広い世界で通用させるための「記号化する」訓練を受ける機会がないのが原因だとも言っています。とにかく、騙されたと思ってこの本を読んでみてください。面白いです。
投稿: Ohrwurm | 2008年8月17日 (日) 09時13分
そうですか。日々、高校生の文章につき合わされている身としては、「そんなこと、今更言ってもらわんでもなあ」という気もしています^_^;。
理屈より、まずは人にわかる文章、意味の通じる文章を書く力をつけないといけないと、仕事柄痛感実感するところです。
畳の上の水練では何も意味もありません。
おっと、この種の言い回しは今の高校生には通じないかもしれませんね。「その手は桑名の焼き蛤」「恐れ入谷の鬼子母神」が通じない時代ですから。
投稿: chuzi | 2008年8月17日 (日) 09時55分
この本には、「まさか<宵越し>の豆腐じゃないでしょうね?」、「うちでは<絹ごし>と<木綿ごし>しか置いてません」という会話の例が出ています。
我が家でも、「当たり前田のクラッカー」と言っても通じなかったりします。
投稿: Ohrwurm | 2008年8月17日 (日) 12時38分
Ohrwurm さん、こんにちは。
>とくに目から鱗が落ちたと感じたのは、「記号化」することと「記号操作」の関係についてだ。新しい事柄を書き記すには「記号化」が必要であるが、日本人は日本語として記号化すること(詞)をおろそかにして、「記号を操作すること」(辞)ばかりに精力を費やしてきて、そのために、変化が激しい現代という時代をうまく乗り越えられていないのではないか、というところなどは大変に納得させられた。
「記号化すること(詞)」と「記号を操作すること(辞)」ここがよくわからないのですが、具体的にどういう事ですか?
想像するに……「リーズナブル」という言葉を例にすると……この言葉を会話に取り入れて「使う」のが「記号を操作するころ(辞)」かな?
記号化する、というのが一番わからないのですが、"reasonable" という英単語を、「リーズナブル」というカタカナ表記の日本語として、日本人社会の中で使えるようにする(つまりは広める)という事でしょうか?
新しい言葉が広まるとは、大勢が使うようになると同時に、その意味が共通(同じ)でないといけない。そういった意味でいいですか?
脱線しますが、このリーズナブル、「ああ、君の言う事はもっともだな」というニュアンスが本来の意味だろうと理解しています。でも世間では物の値段に使われる場合が圧倒的に多いようで、しかも「廉価という意味で『お値打ち』」の時にのみ使われる気がしてなりません。高くても、納得できる品質の高さがあれば、リーズナブルな値段、と言えると思うのですが。
投稿: でんでんむし | 2008年8月21日 (木) 12時34分
「記号化すること」と「記号を操作すること」ですが、前者はこれまで言葉としてなかった概念を言葉として表すこと、後者は既成概念の中で立ち振る舞うこと、と書けばわかるでしょうか?わからないかもね。
読み易い本ですから、一度読んでみられるのが一番かも知れません。
投稿: Ohrwurm | 2008年8月21日 (木) 19時45分