« 一度は演奏会に行ってみたいと思うものの | トップページ | ジョウカイの幼虫 »

2006年12月17日 (日)

耳の虫

 ある音楽が頭の中でグルグル回って離れなくなってしまう状態のことをドイツ語で"zum Ohrwurm geworden"と表現するらしい。Ohrwurmはハサミムシのことでもあるわけだが、直訳すれば"耳の虫"ということになる。だから、"zum Ohrwurm geworden"は「耳の虫になる」という意味になる。
 近頃はゆっくり音楽を聴くこともなくなってしまったが、この秋から始まった「のだめカンタービレ」を毎週月曜日に見ているので、音楽に接する時間は多少は長くなったようにも思える。「のだめカンタービレ」のおかげで、うちの息子たちも少しは西洋古典音楽に親しみを持ってくれたような気もする。BeethovenのSymphonie Nr. 7のメロディーが長男の口からも発せられるようになった。
 そんな中、昨日はSchubertの"Wanderer Phantasie"が頭の中で回り出した。第4楽章の主題。それが、ハサミムシになってしまったわけだ。何となく落ち着かなくなってしまったので、久しく聴いていなかったCDを持ち出してきてAshkenazyの演奏を聴いた。

|

« 一度は演奏会に行ってみたいと思うものの | トップページ | ジョウカイの幼虫 »

コメント

ではわが家ではこれからは「○○さん(←Ohrwurm さんの御本名)が耳についた」とでも言うことにします(笑)。

投稿: Zikade | 2006年12月18日 (月) 16時37分

Zikadeさん、どうもです。今日は今のところ特に音楽が頭の中で回っているわけではありません。「のだめカンタービレ」を見たら、何か回り出すかも知れませんが。

投稿: Ohrwurm | 2006年12月18日 (月) 20時35分

今日は「ペトルーシュカ」か「今日の料理」?

投稿: Zikade | 2006年12月18日 (月) 21時43分

「ペトルーシュカ」と「今日の料理」が似ているというのは、ついさっきまで気が付きませんでした。

投稿: Ohrwurm | 2006年12月18日 (月) 21時52分

初めまして。Zikadeさんの所から来ました。どなただったか忘れましたが、日本の有名な音楽家のエッセイに、「突然頭の中である音楽が鳴り出すことがある」と書いてあるのを見て、ナルホド、そうかと思ったことがあります。知られた現象で、名前までついていたのですね。

「のだめ」は話題になりました。私はテレビでは2度しか見ませんでしたが、大好きなベートーベンの第7が使われていました。シリーズを通して見ていないのでわからないのですが、使用されていたのは第1、第4楽章だけでしょうか?

何と言っても印象的なのは第2楽章です。アレを聞かなければ「7番」を聴いたことにならないとさえ思っています。いずれにせよ、この曲は騎馬民族の音楽ですね。

映画では、007のショーン・コネリーが主演した「未来惑星ザルドス(映画自体はB級かもしれませんが、死をテーマとした哲学的、乃至は宗教的なものを感じました)」のラストシーンに、この第二楽章がとても印象的に使われていました。

投稿: Paczki | 2007年1月11日 (木) 22時47分

Paczkiさん、はじめまして。コメントありがとうございました。
 "zum Ohrwurm geworden"という表現はドイツ在住の方のブログに書かれていて知りました。本文からリンクを張っておきました。決して私の造語ではありません。調べてみたら、ドイツ語の辞書にも書かれていました。ぼくの場合のOhrwurmの第一義はハサミムシですけど。
 「のだめ」は「ながら」で見ていて細かいところまで把握していませんので、ベートーベン7番の第一楽章と第四楽章以外が使われたかどうかは分かりません。別名が無いベートーベンの7番は、クラシック音楽にあまり興味の無い人には3番、5番、6番、9番ほど知名度が高くないですが、これを表舞台に出してくれた「のだめ」の功績は大きいと思います。個人的には、やはり9番が一番好きです。

投稿: Ohrwurm | 2007年1月12日 (金) 22時35分

>死をテーマとした哲学的、乃至は宗教的なものを感じ
>ました)」のラストシーンに、この第二楽章がとても
>印象的に使われていました。

この第二楽章は私には葬送行進曲のように聞こえます。マーラーの交響曲にある葬送行進曲の原形のように思えるのです。

「のだめ」では第7交響曲は主に第一、第四楽章が取り上げられましたが、残りの楽章も出てきました。

第9交響曲は・・・やはり圧倒的な深みをもった作品ですから。

投稿: Zikade | 2007年1月13日 (土) 00時39分

Ohrwurmさん、Zikadeさん、お返事ありがとうございます。7番の第2楽章、あのリズムが好きなのです。シューベルトの弦楽四重奏「死と乙女」にも同じようなリズムが出てきますから、ヨーロッパの伝統の中では「死」や「葬送」と結びつくものがあるのかもしれません。

投稿: Paczki | 2007年1月13日 (土) 23時39分

Paczkiさん、Zikadeさん、コメントありがとうございます。
 確かに、いろいろ思い出してみると、西洋音楽の中には、葬送に結びつくものがたくさんあるようですね。今まで、あまり考えた事は無かったんですけど。
 よくわかりませんが、そういう音楽で表現されるものが、西洋人の一つの「あの世」の情景なんでしょうね。
 話は変わりますが、最近、落語をいろいろ聞いています。上方落語の「地獄八景亡者戯」は「あの世」のお話です。これを聞くと、「あの世」というのは楽しいところなんやなぁ、なんて思えてしまいますが、これも一つの日本人の「あの世」なんでしょうね。たぶん。

投稿: Ohrwurm | 2007年1月15日 (月) 21時51分

落語では私には古典と新作とが曖昧なのですが、「死に神」という落語があります。しかしこの原型は、グリム童話か何か、ヨーロッパのお話ですよね。

いずれの民族も、死後、来世に関する神話、伝説を持っていますから、「死」は古今東西を問わず、人類普遍のテーマなのでしょう。

思うに近代は、「生」を強く意識した時代です。日本が急激に「近代化」の波に巻き込まれた明治の頃、既に漱石が初の新聞小説、「虞美人草」のラストで登場人物に言わせました。総ては喜劇である。唯一、「死」のみが悲劇である。ここでは喜劇ばかりが流行る、と。明治の頃にすでにそう意識されていたのですから、いわんや平成の今においてをや、です。

投稿: Paczki | 2007年1月15日 (月) 23時01分

Paczkiさん、コメントありがとうございます。
 養老孟司先生の著書に書かれていることを私なりに解釈すれば、都会は意識の世界であり、自然である「死」は都会からは遠ざけられ、もともと都会に生まれ育った人は、「死」を意識の片隅に追いやっている、というとろではないかと思います。
 日頃から「死」を意識していれば、本当に死ぬ間際に慌てることも無いように思えます。とは言え、死亡要因としては、自然である病気だけでなく、様々な都会的な要因による事故死もありますので、そこまで意識するのは難しいことかも知れません。

投稿: Ohrwurm | 2007年1月18日 (木) 21時39分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 耳の虫:

« 一度は演奏会に行ってみたいと思うものの | トップページ | ジョウカイの幼虫 »